足跡

@vbear00のメモ

宮入恭平編(2015)『発表会文化論』

社会学×芸術(音楽)教育×文化政策ならではのテーマが書籍になったという事実にまず感謝しよう。学問的な前進はこれからだ。

 

発表会文化論: アマチュアの表現活動を問う (青弓社ライブラリー)

発表会文化論: アマチュアの表現活動を問う (青弓社ライブラリー)

 

 

発表会の特異性は「パフォーマンスをするために自分がお金を払うこと」。

  • 第1章 発表会の歴史

江戸時代の遊芸にみる「おさらい会」に発表会の起源がある。家元制度が人材育成を果たしていた。公会堂の建設が舞台を提供した。

  • 第2章 習い事産業と発表会

発表会は指導者にとって、生徒の習い事を動機づけるイベントである。パフォーマンスだけで生計を立てられるプロはほとんどなく、指導教授活動は重要。

  • 第3章 社会教育・生涯学習と地域アマチュア芸術文化活動

発表会について論じていない。『表現・文化活動の社会教育学』を読め。

  • 第4章 学校教育と発表会

軽音楽も、学校の部活動になると、発表会を目指してみんなで努力する青春物語になる。

  • 第5章 発表会が照らす公共ホールの役割

貸館が公共文化施設の利用の中心になっていることは、地域住民の発表会の場を提供しているという意味で、「芸術」ではないが「文化」としては価値のあるものではないか。

  • 第6章 合唱に親しむ人々

発表会について論じていない。合唱は、和声をつくるという点で、カラオケとは違って一部の人の特権物ですよ。

  • 第7章 誰のための公募展

公募展というのは、一部の特権化された美術専門家のものだという通念・批判があるが、実は、趣味で絵を描く人々の発表会の場としての側面もある。美術の専門領域だけで公募展を論じても、全体像を見失う。社会学ぽい(社会学者が書いてる)。

  • 第8章 発表会化するライブハウス

むかしはライブハウスというのは、オーディションを行って見込みのあるミュージシャンを舞台にあげる場だったのに、今は「お金を払ってもらって誰でも舞台にあがれる」文化産業の舞台になってしまった。著者は昔のライブハウスが好きなのか知らないけど、こんなにノスタルジックに書くよりも、「なんでお金を払ってまでライブハウスを使わなきゃいけないのか。他の演奏場所が日本ではなぜないのか。」みたいな問いを立てたほうが面白いと思う。あとがきにストリートの排除の話が出てくるけど、そっちの方向性アリ。

  • 第9章 アメリカの発表会

アメリカ日系人の芸能は、発表会をチケット制にしたり、広告や助成金をとってきたりして、弟子たちに理不尽な支払いをさせておらず、みんなで舞台をつくっているところが独特だという。伝統芸能だとそうかもしらんが、公演をつくる際に、渉外などの役割分業をするのは、日本のアマチュア文化活動でも一般的では。著者の日本イメージが偏ってる気がする。

 

追記:2015.8.27

「発表会文化」なる文化があるとするならば、その文化における発達や自己形成とはどのようなものだろう。それは、「他の文化」(比較対象が思い浮かばないが、パブリック・パフォーマンスということになるか)とどのように異なるのだろうか?

 

追記:2015.9.13

再読。発表会文化は、はたして「時代の流れとともに」優勢を占めるようになった文化なのか。むしろアマチュア実演活動の、基本的形態のように思えるのだが。という点を確かめたい。