足跡

@vbear00のメモ

佐々木(1996)知性はどこに生まれるか

ぼくたちが何か行為をするとき、その行為は頭の中にある意図や動機、プランに従ってなされると考えるのが世の趨勢の見方だった。歩くためのプログラムが脳内にあって、それを実行することでぼくたちは歩いている、というようなイメージである。本書が提起するのは、そうした世界観では、行為の複雑性や多様性を説明できないのではないか、という問いだ。人びとが行っている行為を、先入観なしにありのままに観察してみよう。そうすると、ひとえに「歩く」といっても、そこには様々な足の動かし方のパターンがあり、歩き方は一様ではないことに気付く。著者、そしてアフォーダンスの提唱者であるギブソンの考え方からすると、そのような歩きの多様性は、頭の中に歩きプログラムがたくさんあるから実現するのではなく、地面や身体の関係性の中から生まれてくるのである。階段での歩き方は、階段の幅や、どんな靴を履いているかによって変化する。スニーカーとヒールでは、歩く行為も異なるのであり、それは「頭の中」の問題として説明できるものではない。ここでは「歩く」という行為を例に挙げたけど、人間の行為、動物や植物の動きは、すべからく環境との関係の中で、システムとして捉えられるものなのである。この世界観に立つと、知性というものもまた、単に頭の中に存在しているのではなく、環境における行為の中でしか現れえないことが分かる。チェスのエキスパートは、初心者と比べて記憶力に優れるというが、それはあくまで、チェスの戦略上意味のある盤面を記憶する場合に限るという話も、それを示している。彼/彼女の記憶力という知性は、チェスの盤と駒、そしてゲームのルールという環境の中で初めて現れてくるのである。