足跡

@vbear00のメモ

芸術領域における実践の分析

  パフォーマンス研究を確立させていった研究者のなかに、人類学ー特に口承文芸の人類学ーの流れがあったことは、実は当然のことであった。ヴィクター・ターナーの儀礼にせよ、リチャード・バウマンの口承文芸にせよ、それらは演劇の場合の脚本、音楽の場合の楽譜というような、作品としてのテクストをもたない。しかし一方で、観察する限り、儀礼や口承文芸が、何ら筋書きをもたないとは思えない。そうした人々の実践を研究対象として定式化するためには、パフォーマンスという切り口は大変有用であったことだろう。それによって、パフォーマンスを観察し、エスノグラフィーという形でその筋書きーただし、実践された後のものとしてのーを再構成し、そこから展開を分析するということが、可能になるのである。音楽ならば、楽譜をもとに、曲の展開やそこに込められた意図・意味を解釈することができるが、パフォーマンスの場合、そもそも解釈されるべきテクストは、存在していない。観察者が記録に残すことによって、はじめテクストと呼べるべきものを見出すことができるのである。
  先日の研究会でエリカ・フィッシャーリヒテについて紹介してもらったのを聞く限り、美学の流れをくむパフォーマンス研究も、同様の問題を抱えていたようだ。すなわち、1960年代に登場した、「パフォーマンス」と呼ばれる芸術ジャンルは、即興性や偶然性を重視し、あらかじめそこで何が起きるのかが分からないことを特徴としていた。そうした芸術ジャンルの美学について語ることは、従来のテキストに重きを置いた研究スタイルでは叶わなかったのだろう。
  パフォーマンス研究とは名乗っていないが、芸術活動をテクストからではなく実践から分析しようという流れは、じわじわと広がっていくことになる。そうした研究は、もはや(パフォーマンス)作品を分析するというよりも、実践においていかなる相互行為がなされていたり、あるいはそれがどのような社会状況と対応関係をもっていたりするのかに、重きを置いているように見える。例えば、ルース・フィネガンの、英国ミルトン・ケインズにおける、アマチュア音楽家のアート・ワールドの析出。クリストファー・スモールの〈ミュージッキング)概念による、オーケストラ・コンサートの規範分析。ポール・アトキンソンによる、オペラの組織的制作におけるブリコラージュの観察。あるいは、キース・ソーヤーの演劇やジャズにおける即興演奏の相互行為の分析。これらの研究は、もはや誰の何という作品が実演されているのかは、そこまで前面には出してこない。むしろ、芸術活動の実践がいかにして行われているのか、というシンプルな問いを、マクロなレベルでは、アート・ワールドや都市の規模で、メゾのレベルでは公演や組織の規模で、ミクロなレベルでは相互行為の規模で後付けていく。その意味でーぼくはまだ不勉強なのだけどーエスノメソドロジーとも問題意識を共有しているのではないかと感じる。
  芸術活動の実践がいかにして行われているのかという問い、これは、音楽心理学のような、芸術にまつわる認知的、生理的基盤の解明を目指す分野とはいかに関係をするのだろうか。いま気になっているのは、その点である。エスノメソドロジーは心理学とどう関係しているのかというトピックは、「心」の概念化をめぐる主要な問題であったことだろう。それを参考にしながら、芸術心理学と、芸術実践学(こういう言い方をすると、アートマネジメントや文化政策に見えてしまうが)の関係も、説得的に説明したいところである。