足跡

@vbear00のメモ

デューイ (1934) 『経験としての芸術』

一つの経験、統一体こそが美的であるという話。人間が生命であるという出発点から、経験の美的性質とは、環境との相互作用において混乱や葛藤を経ながら、「動きながら安定しているという均衡」(p.14)にあると、デューイは主張する。その状態では、「過去が現在を助け、未来が現在を励ます」(p.19)という、時間の観点からの統一も達成されている、芸術は「人間が生き物の特徴である感覚・欲求・衝動・行動の合一を、意識的にしたがって意味のレベルにおいて、取り戻すことのできる具体的証拠」(p.27)であり、人間と環境の相互作用において生じる感覚が、一つの経験として結実するからこそ、芸術作品は、経験としての芸術の働きをもつ。だからこそ、「技術(art)において、芸術的ないしは美的であるものと、そうではないものとの違いを生むものは何なのか、それはまさに制作し鑑賞する経験において、その人がどれだほど完全に生きているか」(p.29)になる。芸術作品を、外化された独立した対象として見ていると、こうした芸術作品本来の働きが見えなくなる。

わたしたちの日常経験は、多くの場合「流れるまま」であるが、その川に標を立てるのが一つの経験である。それは反省によって、はじめてまとまりのもった経験として認識されることだろう。また、一つの経験は、わたしたちの経験の完了点ではなく、そこからまた経験が連続していくものである。だから、以前起こったことを取り入れながら、再び環境との相互作用=葛藤・苦闘・改造を続けていくことになる。それ自体は苦しい経験かもしれないが、それがまた一つの経験に結実するとき、それじしん楽しいものであり、美しいものになる。

自分が舞台に関して言いたいこにかなり通じる。舞台という一つの経験に向かって、過去を取り入れながら葛藤し、未来を想定しながら活動を続けていくことは、苦しいかもしれないが、到達したときの楽しさ=美は、格別のものになる。そして、その舞台からまた何かを受け取り、次の経験に向かっていくことがはじめるのである。それができる人は、真正な芸術活動をしていると言えるだろうし、それができない人は、だらだらとした連続性を生きることになるだろう。公演やライブがあるということは、一つの経験をすることを誰にでも可能にしている装置だと考えることもできる。それを活かしきれるかどうかのところに、何らなの能力やリテラシーがあるのではないか。

思考=理論として方向性は間違っていないように思うので、適切な構成概念construct にまで落とし込められるかが勝負だ。

追記

こらを演者と観客のコミュニケーションと言った場合、どうしてもパフォーマンス中のコールアンドレスポンスのようなものが想定されてしまうと、総合芸術研究会で話して分かった。反省と活動のサイクルは、別の言い方をしたほうが良さそうだ。経験学習論になるのか?

「舞台だからこそ得られる学び」と「舞台をより良くするための学び」は、意識的に区別しなくてはならない。そこで学習される対象がたとえ同じものであっても、研究の方向性、目指すべき像が大分変わったものになってしまう。これはかなりクリティカルだ。後者をとった場合、結局のところ認知科学・熟達化研究でしかなくなる。それがしたかったわけじゃないよな? 学習環境としての舞台に関心があったわけで。心理学・認知科学が言うところの、社会的な、環境的な影響の方に関心がある。それゆえ、「自分の見たい学習」を明確に表現するためには、1.学習される対象(能力や態度?)を示す構成概念と、2.その学習が起きるための条件や環境を示す構成概念のふたつをもたねばらない。

追記:2015.7.29

ライブをする意味、デューイ風に言うならば、漫然とした経験の流れのなかに一つの楔、標を打ち込んでそれを焦点とすることで「一つの経験」=美をつくり出すところにある。それは「終わり」ではなくて、そこから次なる経験が続く根拠地である。ただただ活動を続けるだけはなくて、ある種の祝祭の場が必要とされることは、やっぱりあるだろう。芸能がもともと祝祭空間が演じられるものだったとするならば、そもそも芸術活動とはライブこそが真の姿と言えるのかもしれない。一方で、限界芸術(e.g.労働歌)や、Turinoのいう参加型の音楽実践のように、日常的に行われることをその与件とした芸術の形式もある。これらをどう扱ったら良いのだろうか。一つの答えとして、それは、日常のなかに局所的に非日常をつくり出していると言えるかもしれない。そうすると、ある意味でそれは祝祭と連続線上にあるのだろうか。参加型の音楽実践と、上演型の音楽実践は、経験という観点では、明らかに区別されるものではない?

経験としての芸術

経験としての芸術

 

 

質の経験としてのデューイ芸術的経験論と教育

質の経験としてのデューイ芸術的経験論と教育