ショーン(1983=2007)省察的実践とは何か
専門家は社会の中で不可欠な存在となっているのと同時に、彼らのもつ専門的な知識の有効性、社会の課題を解決できる能力への懐疑が高まっている。悪化する都市環境や貧困、環境問題といったトピックは、専門家の知識では太刀打ちできないように見える。それに、専門家は自らの保身に走ると見られることもある。
- 作者: エドワード・W.サイード,Edward W. Said,大橋洋一
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1998/03
- メディア: 単行本
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こうした状況に対し、専門家自身は、自らが複雑な状況に直面しており、課題の解決だけでなく課題の設定(problem setting)も行わなければならないと考えている。そして、実際に、それができる専門家たちが存在するのである。それにも関わらず、専門家は、専門家のそのような能力について、自覚的ではないようだ。
専門家の知識を表す際によく用いられるのは、彼らが問題解決を行うための技術的合理性をもつということである。それは彼らの知識が、基礎科学的な土台をもち、それが工学を通して、現場での技能として適応されるのだというモデルを想定している。合理的であることは、問題解決が何らかの学問的な根拠のもとに行われるということである。こうした考え方は実証主義に端を発し、フンボルト主義としてジョンズ・ホプキンス大学を経由してアメリカに根付いていくことになった。そして、第二次世界大戦やスプートニク・ショックといったアメリカの経験は、科学的研究、そしてプロフェッショナルの育成への投資に向かわせることになった。
しかし、不確実な状況―問題状況であって問題は設定されなくてはならない―を目の前にしたとき、そのような技術的合理性には限界があることが意識される。
混乱している問題状況に枠組みを与えるのは技術的でないプロセスであり、この非技術的なプロセスを通して私たちはようやく、達成しうる目的と、その目的の達成を可能とする手段とをともに組織し、明確なものとすることができる(pp.41-42)
ここでもまた、技術的熟達を発揮するのに必要な条件を創りだすのは、「名前をつける」ことおよび「枠組みを与える」作業である。(p.42)
【この議論、やはりSuchman(1987)に通ずる。専門的知識というのが、あちらの場合は、機会に組み込まれた人工知能=プランということになるが、それと実践のズレを指摘するというやり方は、同型のものだと感じる。80年代アメリカにおいて時代的に共有されていた問題意識なのかな。サッチマンはミードを引きながら、「合理性というのは、直接的な状況的行為というよりはむしろ事実の前に行為を予測し、そしてあとで行為を再構成するということになる」(52)と言っている。"技術的"合理性とは異なる合理性が提示されていて、これはむしろプロフェッショナルのやっていることに近い。】
- 作者: ルーシー A.サッチマン,佐伯胖,水川喜文,上野直樹,鈴木栄幸
- 出版社/メーカー: 産業図書
- 発売日: 1999/10/28
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*このあと芸術家がでてくるっぽい
【音楽家はプロフェッショナルの例としてさらっと登場するが(p.12)、芸術家は専門家として捉えられるのかはっきりしないところがある。技術的合理性に通じそうなのは、楽典という「基礎科学」があり、それを演奏技術として適用する、クラシック音楽家であるが。ほかのジャンルではどうだろう。たぶん芸術アカデミーの制度化とかを見ないと分からないことなんだろうが。芸術家にクライアントはいるのかと思ったけど、オーディエンスはクライアントか。しかし一方で芸術家はクライアントに関係なく天才として扱われたというのもまた興味深い。こうなると専門家とも言いにくい面があるが、天才を確立させるためのシステムが国家権力によって可能になっているのならば、専門家と言えるような気もするのだ。ここらへんは完全に社会学だな。】
【Hallam(2001)における省察的実践者として音楽家像が、なんで効率性として語られるのかやっと分かった。不確実な状況を不確実なまま生きるよりも、不確実な状況を確実性をもった状況にできるほうが、練習も確かに効率的である。そういう意味で、ショーンの議論から、効率性が本来的に重要なのではなく、その裏にある問題を設定することこそが重要なのだということがわかる。】
【ショーンって「行為の中の省察」を問題にしていて、それはグッドウィンのプロフェッショナル・ビジョンと通じるものがあるんだけど、だからこそ、省察 reflection って「振り返り」じゃないと了解した。『経営学習論」p.92には、ショーンは「行為の中の省察 reflection in action」と「行為についての省察 reflection on action」を区別しているが「これらの2つに排他性は存在しない」と書いてある。これはどこに根拠があるのだろうというか、ショーンは「行為についての省察」=振り返りについてほとんど何も書いてないような気がするが、読み進んでいったら出てくるのだろうか。コルブの経験学習は完全に振り返りの話だけれど、これがショーンと「共振」(前掲書, p.91)しているというのは、どういう意味なんだろうか。reflectionという単語は同じであるが。ちなみにその本だと経験学習論の祖はデューイだとされている。デューイの反省的思考は、探求の全過程を指していっていることなので、サイクルの一部をなす内省的観察 reflective observationだけでなく、コルブの経験学習サイクルを回すことこそが反省的である。これに今まで気づいていなかった。よくワークショップデザインでも「リフレクションの重要性を説いたのはデューイだ」と言うけれど、それを厳密にいうならば、「デューイが重要性を主張した反省的思考を実現するための一つのステップとして振り返りが有効である(そして」と言ったほうが良い。だって、岩波文庫版『民主主義と教育』はreflectionを「熟慮」と訳していて、熟慮的経験reflective experienceは「われわれがなすことと、生じる結果との間の、特定の関連を発見して、両社が連続的になるようにする意図的な努力である」(232)としている。その努力の中には、実は未来の結果を予期するという作業も含まれていて(233)、それは仮説の形成という重要なプロセスである。これは振り返りではなくて、予期のほうを重視してreflectiveと言っているように見えるのだけれど。過去との連続性を強く打ち出している『経験としての芸術』では、「知覚するとき、現在の内容を拡大深化するために過去が現在のなかにもちこまれるのである」(26)とあり、それは単なる再認とは異なるのだと言われている。これは要するに、現在の時点で行為するときに過去が何らかの形で参照されているということであって、それは果たして「振り返り」という何か独立した行為と言えるだろうか。】
- 作者: ドナルド・A.ショーン,Donald A. Sch¨on,柳沢昌一,三輪建二
- 出版社/メーカー: 鳳書房
- 発売日: 2007/11/15
- メディア: 単行本
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