足跡

@vbear00のメモ

やりたいこと

認知科学で言われている現象(熟達化など)を、実践者の言葉で表現したい」

認知科学をレビューしてると言ったときに「あの芸術をいちばん面白くなくするやつね」と言われたこともありましたな。 

https://twitter.com/vbear00/status/641984413237047296

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もし、「メタ認知」や「方略」みたいな構成概念が、芸術活動を説明するために出てきたものならば、この願望は無意味なものとなるだろう。その概念の歴史を調べれば済むからである。しかし、どうも音楽や演劇の認知心理学を見ている感じ、「芸術活動とは関係なく構成された概念」を、芸術活動に当てはめているように見える。その時、芸術活動という実践のどのような部分を説明するために、その構成概念が用いられているのかという点が―少なくともいまの自分の能力やレビューの量からは―かなり研究者の恣意性というか、暗黙知・職人芸によって決められていると感じられる。なぜ芸術活動を研究対象とするのにその概念が用いられるのか、その概念は実践者の言葉・論理のどこに対応しているのか、というところが知りたいし、それを書いてくれる文献が不足しているのなら、自分で生み出したい。Schon(1983)が、Karmiloff-Smith and Inhelder(1974)を引きなが次のように言っているのである。

このような置き換えは、行為の中の省察について話をするために避けて通れないと思われる。ある種の知の生成とその変化について説明するためには、ある言葉を用いなければならないが、知の生成や知の変化というのはおそらく、言葉では表現されてこなかったものである。このようにして、子どもたちのふるまいを観察しながら著者たちは、子どもたちの直観的な理解を何とか言語化しようとする。これらの説明文は、子どもたちにおける行為の中の知の生成についての、著者たちにとっての理論である。これらの理論は、ほかのこうした理論すべてと同じように、念入りに考えられた特殊な構成物であり、また実験的な検証ができるものである。(p.61-62)

こうまとめてみると、Green(2002)も、佐藤(2012)も、違った見方になる。芸術実践を言語化する試みとして、まとめられるだろう。横地・岡田(2007)のようなプロトコル分析も含まれる。ただ、現代アート制作よりも実演活動のほうが、プロトコルを得るのは難しそうだ。

【ところで、この願望が的外れなものであるか有意義なものであるかを判断するためには無限にレビューしなきゃいけないんじゃないか…】

【はい、もうこんな論文見つけちゃいましたよ。Leon-Guerreo(2008) Self-regulation strategies used by student musicians during music practice. 録画データみながら、生徒自身が自分の学習方略について説明したって。「繰り返し」がキータームだったとか。こういうことが知りたいわけです。こういうの、たくさんあるんでしょうか。というか音楽教育学の研究はすべからくこういうことをしてるのかな。やっぱり。自分が不勉強なだけか。】

【これを修論のテーマにするんじゃなくて、こういうことが気になるなと思いながら問いを設定してほうが良いですね。まあ、まだ言語化されてないことを言語化するという目標設定もありえるけど。ただ、結局のところそれは概念のリストをつくるだけなので。概念間の関係をつくれる問いではないね。】

 【でも芸術活動を構成する要素の一覧が手に入るって、それはそれで面白くない?】

【熟達化研究って、芸術家自身が説明できない知を明らかにしようとしてるのはわかるんだけど、その代わり研究者自身は最初からその知のことをわかってることになってない?という気がするのは、ぼくが不毛なことを言っているのかどうか】

【レビューで構成概念を集めよってこういうことをやれということなのでは】

佐藤(2012)だったりSawyerの一連の研究がやってることの意味がよくわかってくるが、これらの研究がやっているのは実践における概念のリストに、「相互行為(コラボレーション)」、下位概念として「休符で休まない」「即興のルールを身に着ける」といった要素を加えたとまとめられるだろう。ぼくは、こうした概念のリストに、「本番」「公演」「ライブ」に関する何らかの要素が付け加えられるはずだと踏んでいる。おそらく(卒論のフィールドワークの経験上)、実践の場ではこうしたパブリック・パフォーマンスに関する試行錯誤がたくさんなされていると思うし、練習においては本番への参照が多く見られると思うのだが、どうもこれまでの研究では、そのことを扱っていないように思う。「演奏」「演技」を成立させる要素に注目するのが中心的な作業であって、それらの「演奏」や「演技」が統合されていく、「本番」というものを含んだ実践のあり方を描き出せていないのではないか(CohenとかFinneganはちゃんと読まんといけないけど)。これが自分の勘の出所である。

【ところでこのエントリにおいてプロ/アマ問題は全く出てこない。これはアマへのこだわりを捨てろということなのか、それとも関係させるべき概念としてプロ/アマがあるのか。例えば「『プロ/アマ』と『練習における本番の参照の仕方』の関係」みたいな研究はありえる気もするぞ。』

M0発表のときに「先行研究を読んで切り口をたくさん知る」と言われたのは、要は上でいうところの「芸術という実践を分節化し、語るための概念のリスト」を入手せよということだったのかもしれないと思い至る。

f:id:vbear:20150911234448p:plain この領域には何があるのだろう?

ちなみに、この3領域には、それぞれ背骨となる親玉がいることだろう。Practiceなら、H.BeckerとJ.Blackingが挙げられる。CognitionだとL.B.MeyerやJ.A.Slobodaか?音楽心理学は著名な学者もたくさんいるが、屋台骨になるのは誰だろう。Learning(informal learningの方が正しい)だとFinneganも先駆的だが、H.S.Bennetも。

重なった領域に何があるかというよりも、ある領域aではどうしてもできないことを同定したうえで、aを仮想的とした領域bを設定し、aではできないことをbでやってみせるというやり方が、本来的な意義ではなかろうか。とするとやはり、行動学的なスタイルを仮想的と置くのはわかりやすいが、問題はそれが果たして本当に行動学的なスタイル(と批判しうるもの)なのか、ということなんだな。

音を創る、音を聴く―音楽の協同的生成

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How Popular Musicians Learn: A Way Ahead for Music Education (Ashgate Popular and Folk Music Series)

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