芸術領域における実践の分析
大浦(2000)創造的技能領域における熟達化の認知心理学的研究
本書では第1の問いとして「熟達者は初心者とは質的に異なった課題表象が形成できるか」が挙げられている。音楽演奏における課題表象には、1.メタ認知的な目標表象、2.個々の楽曲についての対象表象である楽曲表象、3.楽曲表象を具体化するための戦略的表象である演奏表現表象、がある。パラ見した限り、本書が中心的に扱うのは2.である。そして、Oura and Hatano(2001)は、ここでいう1.を扱っていると気づいた。
フィネガン(1989=2011)隠れた音楽家たち
プロフェッショナル―アマチュアの連続軸と、その軸を構成する概念の同定
- 作者: ルースフィネガン,Ruth Finnegan,湯川新
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 2011/10/31
- メディア: 単行本
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やりたいこと
「認知科学で言われている現象(熟達化など)を、実践者の言葉で表現したい」
認知科学をレビューしてると言ったときに「あの芸術をいちばん面白くなくするやつね」と言われたこともありましたな。
https://twitter.com/vbear00/status/641984413237047296
https://twitter.com/vbear00/status/641985609502818304
もし、「メタ認知」や「方略」みたいな構成概念が、芸術活動を説明するために出てきたものならば、この願望は無意味なものとなるだろう。その概念の歴史を調べれば済むからである。しかし、どうも音楽や演劇の認知心理学を見ている感じ、「芸術活動とは関係なく構成された概念」を、芸術活動に当てはめているように見える。その時、芸術活動という実践のどのような部分を説明するために、その構成概念が用いられているのかという点が―少なくともいまの自分の能力やレビューの量からは―かなり研究者の恣意性というか、暗黙知・職人芸によって決められていると感じられる。なぜ芸術活動を研究対象とするのにその概念が用いられるのか、その概念は実践者の言葉・論理のどこに対応しているのか、というところが知りたいし、それを書いてくれる文献が不足しているのなら、自分で生み出したい。Schon(1983)が、Karmiloff-Smith and Inhelder(1974)を引きなが次のように言っているのである。
このような置き換えは、行為の中の省察について話をするために避けて通れないと思われる。ある種の知の生成とその変化について説明するためには、ある言葉を用いなければならないが、知の生成や知の変化というのはおそらく、言葉では表現されてこなかったものである。このようにして、子どもたちのふるまいを観察しながら著者たちは、子どもたちの直観的な理解を何とか言語化しようとする。これらの説明文は、子どもたちにおける行為の中の知の生成についての、著者たちにとっての理論である。これらの理論は、ほかのこうした理論すべてと同じように、念入りに考えられた特殊な構成物であり、また実験的な検証ができるものである。(p.61-62)
こうまとめてみると、Green(2002)も、佐藤(2012)も、違った見方になる。芸術実践を言語化する試みとして、まとめられるだろう。横地・岡田(2007)のようなプロトコル分析も含まれる。ただ、現代アート制作よりも実演活動のほうが、プロトコルを得るのは難しそうだ。
【ところで、この願望が的外れなものであるか有意義なものであるかを判断するためには無限にレビューしなきゃいけないんじゃないか…】
【はい、もうこんな論文見つけちゃいましたよ。Leon-Guerreo(2008) Self-regulation strategies used by student musicians during music practice. 録画データみながら、生徒自身が自分の学習方略について説明したって。「繰り返し」がキータームだったとか。こういうことが知りたいわけです。こういうの、たくさんあるんでしょうか。というか音楽教育学の研究はすべからくこういうことをしてるのかな。やっぱり。自分が不勉強なだけか。】
【これを修論のテーマにするんじゃなくて、こういうことが気になるなと思いながら問いを設定してほうが良いですね。まあ、まだ言語化されてないことを言語化するという目標設定もありえるけど。ただ、結局のところそれは概念のリストをつくるだけなので。概念間の関係をつくれる問いではないね。】
【でも芸術活動を構成する要素の一覧が手に入るって、それはそれで面白くない?】
【熟達化研究って、芸術家自身が説明できない知を明らかにしようとしてるのはわかるんだけど、その代わり研究者自身は最初からその知のことをわかってることになってない?という気がするのは、ぼくが不毛なことを言っているのかどうか】
【レビューで構成概念を集めよってこういうことをやれということなのでは】
佐藤(2012)だったりSawyerの一連の研究がやってることの意味がよくわかってくるが、これらの研究がやっているのは実践における概念のリストに、「相互行為(コラボレーション)」、下位概念として「休符で休まない」「即興のルールを身に着ける」といった要素を加えたとまとめられるだろう。ぼくは、こうした概念のリストに、「本番」「公演」「ライブ」に関する何らかの要素が付け加えられるはずだと踏んでいる。おそらく(卒論のフィールドワークの経験上)、実践の場ではこうしたパブリック・パフォーマンスに関する試行錯誤がたくさんなされていると思うし、練習においては本番への参照が多く見られると思うのだが、どうもこれまでの研究では、そのことを扱っていないように思う。「演奏」「演技」を成立させる要素に注目するのが中心的な作業であって、それらの「演奏」や「演技」が統合されていく、「本番」というものを含んだ実践のあり方を描き出せていないのではないか(CohenとかFinneganはちゃんと読まんといけないけど)。これが自分の勘の出所である。
【ところでこのエントリにおいてプロ/アマ問題は全く出てこない。これはアマへのこだわりを捨てろということなのか、それとも関係させるべき概念としてプロ/アマがあるのか。例えば「『プロ/アマ』と『練習における本番の参照の仕方』の関係」みたいな研究はありえる気もするぞ。』
M0発表のときに「先行研究を読んで切り口をたくさん知る」と言われたのは、要は上でいうところの「芸術という実践を分節化し、語るための概念のリスト」を入手せよということだったのかもしれないと思い至る。
この領域には何があるのだろう?
ちなみに、この3領域には、それぞれ背骨となる親玉がいることだろう。Practiceなら、H.BeckerとJ.Blackingが挙げられる。CognitionだとL.B.MeyerやJ.A.Slobodaか?音楽心理学は著名な学者もたくさんいるが、屋台骨になるのは誰だろう。Learning(informal learningの方が正しい)だとFinneganも先駆的だが、H.S.Bennetも。
重なった領域に何があるかというよりも、ある領域aではどうしてもできないことを同定したうえで、aを仮想的とした領域bを設定し、aではできないことをbでやってみせるというやり方が、本来的な意義ではなかろうか。とするとやはり、行動学的なスタイルを仮想的と置くのはわかりやすいが、問題はそれが果たして本当に行動学的なスタイル(と批判しうるもの)なのか、ということなんだな。
How Popular Musicians Learn: A Way Ahead for Music Education (Ashgate Popular and Folk Music Series)
- 作者: Lucy Green
- 出版社/メーカー: Ashgate Pub Ltd
- 発売日: 2002/08
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ショーン(1983=2007)省察的実践とは何か
専門家は社会の中で不可欠な存在となっているのと同時に、彼らのもつ専門的な知識の有効性、社会の課題を解決できる能力への懐疑が高まっている。悪化する都市環境や貧困、環境問題といったトピックは、専門家の知識では太刀打ちできないように見える。それに、専門家は自らの保身に走ると見られることもある。
- 作者: エドワード・W.サイード,Edward W. Said,大橋洋一
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1998/03
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こうした状況に対し、専門家自身は、自らが複雑な状況に直面しており、課題の解決だけでなく課題の設定(problem setting)も行わなければならないと考えている。そして、実際に、それができる専門家たちが存在するのである。それにも関わらず、専門家は、専門家のそのような能力について、自覚的ではないようだ。
専門家の知識を表す際によく用いられるのは、彼らが問題解決を行うための技術的合理性をもつということである。それは彼らの知識が、基礎科学的な土台をもち、それが工学を通して、現場での技能として適応されるのだというモデルを想定している。合理的であることは、問題解決が何らかの学問的な根拠のもとに行われるということである。こうした考え方は実証主義に端を発し、フンボルト主義としてジョンズ・ホプキンス大学を経由してアメリカに根付いていくことになった。そして、第二次世界大戦やスプートニク・ショックといったアメリカの経験は、科学的研究、そしてプロフェッショナルの育成への投資に向かわせることになった。
しかし、不確実な状況―問題状況であって問題は設定されなくてはならない―を目の前にしたとき、そのような技術的合理性には限界があることが意識される。
混乱している問題状況に枠組みを与えるのは技術的でないプロセスであり、この非技術的なプロセスを通して私たちはようやく、達成しうる目的と、その目的の達成を可能とする手段とをともに組織し、明確なものとすることができる(pp.41-42)
ここでもまた、技術的熟達を発揮するのに必要な条件を創りだすのは、「名前をつける」ことおよび「枠組みを与える」作業である。(p.42)
【この議論、やはりSuchman(1987)に通ずる。専門的知識というのが、あちらの場合は、機会に組み込まれた人工知能=プランということになるが、それと実践のズレを指摘するというやり方は、同型のものだと感じる。80年代アメリカにおいて時代的に共有されていた問題意識なのかな。サッチマンはミードを引きながら、「合理性というのは、直接的な状況的行為というよりはむしろ事実の前に行為を予測し、そしてあとで行為を再構成するということになる」(52)と言っている。"技術的"合理性とは異なる合理性が提示されていて、これはむしろプロフェッショナルのやっていることに近い。】
- 作者: ルーシー A.サッチマン,佐伯胖,水川喜文,上野直樹,鈴木栄幸
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*このあと芸術家がでてくるっぽい
【音楽家はプロフェッショナルの例としてさらっと登場するが(p.12)、芸術家は専門家として捉えられるのかはっきりしないところがある。技術的合理性に通じそうなのは、楽典という「基礎科学」があり、それを演奏技術として適用する、クラシック音楽家であるが。ほかのジャンルではどうだろう。たぶん芸術アカデミーの制度化とかを見ないと分からないことなんだろうが。芸術家にクライアントはいるのかと思ったけど、オーディエンスはクライアントか。しかし一方で芸術家はクライアントに関係なく天才として扱われたというのもまた興味深い。こうなると専門家とも言いにくい面があるが、天才を確立させるためのシステムが国家権力によって可能になっているのならば、専門家と言えるような気もするのだ。ここらへんは完全に社会学だな。】
【Hallam(2001)における省察的実践者として音楽家像が、なんで効率性として語られるのかやっと分かった。不確実な状況を不確実なまま生きるよりも、不確実な状況を確実性をもった状況にできるほうが、練習も確かに効率的である。そういう意味で、ショーンの議論から、効率性が本来的に重要なのではなく、その裏にある問題を設定することこそが重要なのだということがわかる。】
【ショーンって「行為の中の省察」を問題にしていて、それはグッドウィンのプロフェッショナル・ビジョンと通じるものがあるんだけど、だからこそ、省察 reflection って「振り返り」じゃないと了解した。『経営学習論」p.92には、ショーンは「行為の中の省察 reflection in action」と「行為についての省察 reflection on action」を区別しているが「これらの2つに排他性は存在しない」と書いてある。これはどこに根拠があるのだろうというか、ショーンは「行為についての省察」=振り返りについてほとんど何も書いてないような気がするが、読み進んでいったら出てくるのだろうか。コルブの経験学習は完全に振り返りの話だけれど、これがショーンと「共振」(前掲書, p.91)しているというのは、どういう意味なんだろうか。reflectionという単語は同じであるが。ちなみにその本だと経験学習論の祖はデューイだとされている。デューイの反省的思考は、探求の全過程を指していっていることなので、サイクルの一部をなす内省的観察 reflective observationだけでなく、コルブの経験学習サイクルを回すことこそが反省的である。これに今まで気づいていなかった。よくワークショップデザインでも「リフレクションの重要性を説いたのはデューイだ」と言うけれど、それを厳密にいうならば、「デューイが重要性を主張した反省的思考を実現するための一つのステップとして振り返りが有効である(そして」と言ったほうが良い。だって、岩波文庫版『民主主義と教育』はreflectionを「熟慮」と訳していて、熟慮的経験reflective experienceは「われわれがなすことと、生じる結果との間の、特定の関連を発見して、両社が連続的になるようにする意図的な努力である」(232)としている。その努力の中には、実は未来の結果を予期するという作業も含まれていて(233)、それは仮説の形成という重要なプロセスである。これは振り返りではなくて、予期のほうを重視してreflectiveと言っているように見えるのだけれど。過去との連続性を強く打ち出している『経験としての芸術』では、「知覚するとき、現在の内容を拡大深化するために過去が現在のなかにもちこまれるのである」(26)とあり、それは単なる再認とは異なるのだと言われている。これは要するに、現在の時点で行為するときに過去が何らかの形で参照されているということであって、それは果たして「振り返り」という何か独立した行為と言えるだろうか。】
- 作者: ドナルド・A.ショーン,Donald A. Sch¨on,柳沢昌一,三輪建二
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ニューマン(1977=2001)予約会員獲得のすすめ
カミュはこう言ったそうな。引用元は不明。カミュの『シーシュポスの神話』は芸術哲学の書でもあるそうだがそこに書いてあるのかしらん。
芸術家を助けることができるのは芸術を愛する人々だけだ(25)
予約会員制度をもつこと、予約会員を獲得するために積極的なプロモーション活動をうつことを主張する。舞台芸術活動は、本番=未来への投資で成り立っているのだから、あらかじめ投資をしてくれる予約会員がいれば、企画や稽古がしやすくなるという道理。舞台芸術は、組織的に・未来に向けた生産活動をする、という点で、企業組織と類似している(ただし、2時間の作品は、必ず2時間分の人手や材料=コストがかかるので、技術革新による効率化がほとんどなされないと述べたのは、ボウモル&ボウエンであった)。
- 作者: ウィリアム・J・ボウモル,ウィリアム・G・ボウエン,池上惇,渡辺守章
- 出版社/メーカー: 芸団協出版部
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小泉(2002)学校・教育・若者
小泉恭子(2002)学校・教育・若者. 音楽教育学, 32(1): 1-10.
方法論としてのフィールドワークではなく、ある社会集団に独特な文化や規範を描きだすモノグラフとしてのエスノグラフィーの価値を、音楽教育学においても活かすべきだというレビュー。1970年代のCCCS周辺のサブカルチャー研究、Willis(1977)やHebdige(1978)をもとに、音楽が若者集団の独特な価値観やスタイルと結びついてること、そしてそれがアイデンティティ形成の手段=記号として用いられていることを述べる。アイデンティティという視点は、音楽教育学が見落としがちな点であった。
【学習者にとって音楽がどんな意味をもつのかを理解することは、学習者中心のデザインを説く近年の学習科学/教育工学とも呼応するものである。音楽教育において、そうした潮流がどれくらい受け入れられているのかは、まだよくわからない。】
- 作者: ポール・E.ウィリス,Paul E. Willis,熊沢誠,山田潤
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70年代のサブカルチャー研究は、モッズやパンクのように、明かなサブカルチャーを対象にしていた。それらは若者自身が、「自らは~である」と定式化できるスタイルである。【難波(2007)がユース・サブカルチャーとして扱ったのも、そのような若者内部において明確に意識され、名づけられたスタイルである。】しかし、多くの「ふつうの若者」は、~族やモッズといったサブカルチャーの一員ではなく、何らかの名前を付けられることはないが、しかし、音楽の好みをもち、アイデンティティを形成している。サブカルチャー研究に彼らのような存在を含めるには、どうしたら良いのか。これが80年代以降の課題であり、それに対する応答のひとつが、Finnegan(1989)やCohen(1991)のような、英国のある都市を舞台に、人々の音楽実践を記述していったモノグラフである。
- 作者: ルースフィネガン,Ruth Finnegan,湯川新
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
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Rock Culture in Liverpool: Popular Music in the Making
- 作者: Sara Cohen
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr on Demand
- 発売日: 1991/05/30
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これらの研究は、エスノグラフィーによって人々の日常生活における音楽の意味を記述する。それは、有名男性ミュージシャンや音楽産業に注目しがちであった従来の研究が取りこぼしていた対象である。Crafts et al. (1993) はその最たるもので、ニューヨーク近辺の男女150人にインタビューした結果、「音楽実践の社会的意味は個人的で、特定の場所や時間と結びついており、一般化が困難」だとしている。
【ここに至ると、もはや「音楽に付与された意味は何か」という問いでは、生産性がなくなるだろう。それらは、ひとりひとり異なるというからである。~族のようなスタイルがない以上、こうなることは当然であった。では、次にいかなる問いを立てれば良いのか。ひとつには、「音楽に対する意味は、いかにして付与されるのか」ということがある。人々は、生活の中で、いかにして音楽に何らかの意味を見出すのだろうか。そのために、どのようにして音楽と付き合っているのだろうか。あるいは、そうした音楽との付き合いを可能にするような、社会環境とはどのようなものだろうか。】
My Music: Explorations of Music in Daily Life (Music/Culture Series)
- 作者: Daniel Cavicchi,Susan D. Crafts,Charles Keil
- 出版社/メーカー: Wesleyan Univ Pr
- 発売日: 1993/05
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例えば、音楽演奏に携わる機会は、ジェンダーによる差が存在する。男子に比べて女子は、ロックパフォーマーになるための社会的制約があり(Bayton 1998)、ロックバンドを形成するための機会も少ないという(Clawson 1999)。あるいは、日本の高校生は、学校と学校外で、語るべきポピュラー音楽の種類を使い分けている(小泉 2007)。学校内/学校外=フォーマル/インフォーマルの音楽学習に関するエスノグラフィーはLucy GreenやChris Richardsらによって先鞭がつけられている。
How Popular Musicians Learn: A Way Ahead for Music Education (Ashgate Popular and Folk Music Series)
- 作者: Lucy Green
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- 発売日: 2002/08
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Teen Spirits: Music And Identity In Media Education (Media, Education and Culture)
- 作者: Dr Chris Richards,Chris Richards
- 出版社/メーカー: Routledge
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Koizumi(2002)においては、音楽を演奏する若者と、聴取する若者では、パーソナル・ミュージック(個人が好む音楽)とコモン・ミュージック(友人たちと話題にする音楽)の関係が異なるとされている。【音楽を聴取する者の方が明らかに多いなかで、演奏するという実践自体が、一種のサブカルチャーとしての側面をもっているのかもしれない。もちろん、ポピュラー音楽だからこそ聴取者が多いのであって、他の芸術ジャンルであれば、実演することと、消費することは、同一の人々によって担われていることも多い。データはないが、個人的なフィールドワークの印象として合唱はそういうジャンルであるし、あるいは田村(2015)によれば現代演劇もそうであるようだ。】
都市の舞台俳優たち:アーバニズムの下位文化理論の検証に向かって (リベラ・シリーズ11)
- 作者: 田村公人
- 出版社/メーカー: ハーベスト社
- 発売日: 2015/05/28
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