足跡

@vbear00のメモ

なぜ芸術家のキャリアを問題にするのか

日本社会において芸術家であることは可能か。この問いに対して、わたしたちはそれがとても難しいことを示す多くのエビデンスをもっている。しかし、それと同時に、近代日本の歴史上、多くの芸術家(そこには"名もなき"、"隠れた"芸術家が多く含まれる)が存在し、芸術生産を担っていたことも事実である。現在であろうと、過去であろうと、彼らの実践が十分に省みられているとは言い難い。しかし、それはどういう点で十分ではないのだろうか?わたしたちは、そもそも芸術について語る必要はあるのだろうか?

現代演劇のフィールドワーク―芸術生産の文化社会学

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隠れた音楽家たち: イングランドの町の音楽作り

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 芸術家としてキャリアを築いていくことは、その芸術活動を行うための優れた技能を獲得していくこととは、必ずしも同じではない。芸術家としてキャリアを築くことのできた人は、結果として優れた技能をもっている。しかし、それは優れた技能をもっていたからキャリアを築けたとは、単純に言えない事情をはらんでいる。アートマネジメントや文化経済学、文化政策といった領域が教えるのは、芸術家を職業として遂行していくことの困難さである。芸術は金にならない。というよりは、文化産業においては、明らかに供給が需要を大幅に上回っている。毎年、美大芸大から卒業生が排出されるし、専門学校や実演団体で活動してる者も多いことを考えると、芸術家の卵は無数にいることになる。しかし、いまの日本では、彼らの生活を賄っていけるほど、芸術鑑賞にお金は使われない。だから、芸団協の実演家を対象にした調査でも、教授活動から主な収入を得たり、芸術とは関係のない仕事から収入を得ている実務家の存在が浮かび上がってくる。芸団協に加入している芸術家でそれなのだから、実態はもっと厳しいだろう。

金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか

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演劇は仕事になるのか?: 演劇の経済的側面とその未来

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こうした事情を知った以上、わたしたちは芸術を、能力や才能からは語り切れないことを痛感する。アートワールドにおける芸術生産という実践は、多分に社会に埋め込まれた活動である。芸術教育や芸術心理学は、芸術活動を成り立たせる能力や、認知的な技能を明らかにし、さらにそれを育てるための教育方法や学習方法を提示することだろう。しかし、それは、芸術活動を行うことのできる環境や状況に、その人が身を置くことができて初めて意味をもつ。個々人が、社会生活においていかにして芸術と関係をもち、アートワールドに参入していくのか。なぜ芸術活動が成り立つのかを考えるならば、こうした芸術家とアートワールドの関係の仕方を理解する必要がある。芸術家のキャリアとは、そうした関係の仕方が、時間的に積み重なったものに他ならない。

芸術家のキャリアを考えるうえで興味深いのは、なぜ芸術を仕事にする必要があるのか、という点である。ここでは、プロフェッショナル/アマチュアという区別を導入することができる。世の中には、芸術で収入を得ることを目標とせずに、芸術活動を続ける人々が存在する。そうしたアマチュアの人々と、プロフェッショナル(を目指す)人々を対比させてみたとき、芸術家としてのキャリアには多様なコースが存在しうることが分かる。その中で、なぜあえて芸術を仕事にしようとするのか。あるいは、なぜアマチュアのとして活動しようとするのか。さらに言えば、そうした選択は、どのような社会環境のもとで可能になるのか。これらの問いに答えていくことで、わたしたちは、一方で、この社会において芸術を行うことがいかにして可能なのかを知り、他方で、芸術がその人の人生においていかなる意味をもつのかを知る。

 (未)

 

武知優子・森永康子 (2010) 職業的音楽家に向けての課題―音楽家を目指してきた若者の語りから―.

武知優子・森永康子 (2010) 職業的音楽家に向けての課題―音楽家を目指してきた若者の語りから―. 音楽教育学, 40(2): 13-24.

■ 背景

日本において音楽家を職業とするのは難しい。それは収入を得ることの難しさと、音楽大学ではスキルの教育はあってもキャリア教育があまり行われないこと、に起因する。

■ RQ

実際にどのような課題や困難を経て職業的音楽家(収入の全部または大部分を音楽による活動から得て、生計を立てている人)になっていくのか

華麗な経歴などを持たない音楽専攻卒業生が、音楽を活かし職業としていくにはどのような紆余曲折があるのか

■ 方法

半構造化インタビュー

幼少期からクラシックピアノを学び、大学受験時にクラシックピアノにより実技試験を受け、調査時点で音楽を職業としている、または職業とすることを志している8名

協力者ごとに職業的音楽家を目指すにあたり影響が大きかった出来事やきっかけを記入

語りに共通する点を抽出し概念化

 

■ 結果

学校卒業~社会へ

職業としての音楽に関する情報の欠如:人間関係の重要性気付く

音楽でやっていく決心の甘さ:プロアマの境界は明確にあるわけでなく本人の考えや決意によるところも多い

否定的評価

音楽の収入、ある程度の増加

音楽家への決心固く

アイデンティティの葛藤:主な収入源が違うことへの葛藤、教授の仕事を得ることはアイデンティティの葛藤を緩和する

否定的評価:否定的な評価を、どう受け止め、活かしていくかが、あきらめずに目指していく鍵

音楽的充実か収入か:音楽的な満足度は低くとも、確実な収入源となる仕事を確保しておかなければならないという認識

職業的音楽家へ

将来展望の難しさ:短期的な見通ししか立てられないが、音楽の世界は不確実なので適切な戦略か

■ 結論

以上6つの課題を、だれがいつどのように経験したり、しなかったりするかは、人によって異なる

■ 議論

各課題について

・音楽を職業にしていくうえでの人間関係の重要性は確かにそうだろう。アートワールドの住人になるために不可欠であるし、ピアノ演奏家のように組織に所属するのではなくフリーで活動するならばなおさらである。グラノヴェッター的な世界観。クロスリーも読んだらそういうことになるだろうか。イギリスのconcervatoireは、プロの音楽家との接点をつくってくれる点で学生の満足度も高いと、Papageorgi et al. (2010) にあった。

・プロアマの決心は興味深い点。仕事にしよう/しないでおこう、という判断はいつどのようになさるのかというのは、あまり議論されていない印象。基本的に音大生はプロを目指すものなのか?あるいは実演家のうち仕事にしようと思うようになる人はだれ?実演活動を始めるきっかけ(家庭環境やライフイベント)や、仕事にしようとするうえでの苦労(本稿や佐藤(1999))については語られているが、仕事にしようとするきっかけはどこにあるのだろう。Taylor and Hallam (2011) に、それに関して議論があるようだ。佐藤(2001)にもあるかもしれんが、音大に入る時点ですでに職業にする説教的意思がある人もいればそうでない人もいるみたい。

アイデンティティの葛藤と収入の問題は、芸術活動全般にまとわりつく問題。古くはBecker(1963)にある、ジャズミュージシャンとスクエアの関係に見られる。芸術か金か。しかし、Becker(1963)のミュージシャンのように、金を稼ぐためであっても音楽ができているならば、まだ幸せな方だろう。多くの場合、金を稼ぐ手段は、芸術とは関係ない領域の仕事である。現代演劇ならば、佐藤(1999)に議論があるし、日本芸能実演家団体協議会(2015)にも、そのような実態が描かれる。マンガ『ブルージャイアント』だってそうだよね。しかし、小島(2014)のように金をかせぐ仕事と、情熱をささげる先の芸術活動を分けている人は=アマチュアでいいとしている人、アイデンティティの葛藤は覚えないかもしれない。仕事にしたい、という思いがあるからこそ葛藤も起きる。

・将来展望の難しさについて、本稿ではどうしてもその場しのぎが音楽家のキャリアで中心になってしまうと述べているし、それはそれで適切じゃないかと述べている。横地・岡田(2007)では、現代アートの作家が、経験年数20年ほどを経て自己の創作ビジョンを確立させていく様子が描かれていたが、彼も将来展望があったようには見えない。むしろ、キャリアの初期~中期段階では、オリジナルな表現を模索しつつも、他者の模倣になったり、奇抜になりすぎたりするような、試行錯誤を経て、そのうち自己の内的基準をつくりあげていた。そう考えると、将来展望が描けることは食っていくことに関しては重要であるが、芸術表現については、むしろ展望は描けなくても試行錯誤できる環境が重要ということになろう。展示・発表の機会が重要だということは、横地・岡田(2012)(『実践知』所収のもの)にも書いてあるし、大浦(2000)も述べている。もっとも試行錯誤を生むのは、やはりそういう機会が与えられたり、そこで観客からフィードバックを得たりすることだろう。仲間同士のフィードバックや批評によって創造性が高まることも、八木(2007)やHeath(1991)が報告する通りである。芸団協(2015)では、実演家たちが発表の場を欲しているとあり、なかなか成長の機会が得られていないのではないかという予想もつく。あるいは宮入ほか(2015)のいう発表会は、どれだけ試行錯誤を生んでいるのかも気になるところである。

西垣通(1999)『こころの情報学』

情報学環の世界観って、こういうものだったのかと膝を打つ心地がした。

 

情報の定義について

 情報を工学的に定義すると「2つの場合があって両者の出現確率が等しい(とみなされる)とき、どちらかが出現するかの伝達」(18)である。0か1のデジタルというわけだ。この定義は、ふつう情報という言葉を使う時に含意されている、意味内容や価値といった点を捉えられていない、形式的なものである。それを乗り越えるために、社会学定義(吉田民人による)が有効性をもつ。情報を社会学的に定義すると、それは「パターン」(22)である。とくにその中で、生命現象に関わるもの、記号として使われるもの、伝達・認知されるものという階層がある。

 情報をパターンとして捉えることは、情報が生命とともに誕生したことを前提にしている。生命とは、自分で自分をつくる(=オート・ポイエーシス)パターンにほかならず、その現象を通じて、環境から不断に自己を区別し続ける。この生命現象がない限り、意味あるものとして環境から何らかのパターン=情報が取り出されることはない。ベイトソンのいうところの「差異をつくる差異」が情報であり、差異のつくり方は生命現象に連動する。それゆえ、情報は生物の進化(→ドーキンス)にともなって変化する、歴史的蓄積物であることも言うまでもない。

機械と人工知能について

 機会に人間の言語を扱わせようとする試みが行われてきたが、一つの限界に突き当たることになった。フレーム問題である。機械は、意味内容に関係なく形式的に推論をすすめていく形式論理(アリストテレスの命題論理―フレーゲの述語論理)の扱いには長けている。しかし、状況を判断したり、環境のなかで考慮すべき要素を場合によって取捨選択したり、それに応じて適切な行動をしたりすることは―つまり、意味を扱うことが―機械にはできなかった。総当たり的に場合を探索することはできるが、人間がやるように、文脈や状況に応じて注意を向けるようなことができない。だからこそ、1987年にウィノグラードは『コンピュータと認知を理解する』において、自然言語をしゃべる機械など実現できないと主張したのであった。ガダマーが主張するように、意味はテキストと解釈者(歴史的文化的、あるいは個人史的に構築された先入観をもっている)の相互作用によって生み出される。状況に投げ込まれているわたしたち(→ハイデガー)の先入観を、客観的に捉えることなど可能だろうか。

 そこから、次のような主張も生まれる。心とは、「歴史的に形成される自己循環的な閉鎖系であり、したがって外部の客観的実在性が写像される記号表象の操作系というモデルではとらえられない」(81)。

動物とヒト

 環境からパターンを区別することは、生物が共通して行う営みであった。そのやり方は、遺伝と学習によって形成され、次世代に受け継がれていく。スキナー流の行動主義ならば、動物の意識を認めることはしないが、しかし、(人間を含んだ)動物がシンボルを用いたコミュニケーションを行ったり、状況に応じた行動をしていることを考えるならば、むしろ、動物は一般的に心的システムをもつと考えたほうがよいだろう。特に、ネズミでも「予測」(106)をするということは、それを裏付ける。

 心的システムの効用とは、単に複雑な行動を可能にするというより、もっと別のことである。それは、中枢神経のはたらきで映し出された内部世界のなかで、何らかの〈操作〉をおこない、〈予測〉を立てて臨機応変に行動することです。それによって環境条件のもとで個体が柔軟な生存戦略をたて、他の個体より性的に優位に立つことも可能になるわけです。(111)

類人猿、さらにヒトは、予測という行動をより行う。ダンバーが、群れのサイズと脳の新皮質の大きさの相関関係を示しているが、この関係には「相手の身になってその出方を予測し、予測にもとづいてなるべく有利に行動するという、自省段階の心的システム特有の機能がはたらいていたはず」(129)というメカニズムがある。

 さらに、予測が具体的な状況から切り離されたとき、そこに言葉のはたらきを認めることができる。フィクション―神話とゴシップ―を語ることは、具体的な時間、状況から離れて、ある種「演劇的な時空間での出来事」(141)を語ることである。

類人猿にも(潜在的にせよ)ゴシップや簡単なフィクションの萌芽を語る能力はあったのではないか、そしてヒトの言語は、その能力を基盤にして、フィクションの時空独立性・状況非依存性を大きく高めるために、高度な文法体系と豊かな語彙をそなえるに至ったのではないか(141)

 という仮説が考えられるのである。

 「ホモ・サピエンスの唯一の武器は『予測し計算する頭脳』でしたが、その能力は同時に『未来への不安』という副産物を生むことになりました。明日の計画を立てることは、明日襲いかかってくるかもしれない不安を抱え込むことでもあるのです」(143)。その不安への対処が、神話を語ることであり、共同体の中で正しいことを権威づけることなのである。それによって、わたしたちは「考えすぎる」ことに、ある程度の歯止めをかけるのだ。

 

自分とは違う存在や、いま・こことは違う状況のことを想像し、予測することは、動物一般に見られる行動であると同時に、進化においてヒトが最も発達させてきた行動のひとつであるとも言える。 

ピアジェの発達段階においても、子どもは発達において形式的操作期になって、やっと具体的な事物を離れて、抽象的な思考ができるとされている(ただし、そこでは命題・記号論理的思考が言われているのであって、イメージすることとは異なるが)。少なくとも、いま・ここでの行動に、いま・ここ以外の状況への参照を組み込むこと―グッドウィンによる少女の語りの研究が想起される―は、かなり高次の営みであると考えられる。目標を設定し、それに向かって自己調整しながら練習をすることも、またその一つだろう。これは、熟達したミュージシャンのやり方だと言われている。

サッチマンの『プランと状況的認知』を見ると、機械にないヒトの営みの特徴は逆に、予測や計画=プランが機能しない不確実な状況に陥ったときに、それでも適切な行動を選びとることにあるとも言えそうだが。これはこれで重要な営みであるだろう。計画を立てることと、そのうえで計画を柔軟に変更できることまで含めるか、という話かもしれない。

 

こころの情報学 (ちくま新書)

こころの情報学 (ちくま新書)

 

 

 

本質的なこと

芸術に関して本質的なことをやりたいという話はしていたが、どのような観点かは見つけられていなかった。デューイなどを読んでそう思っていたときは、芸術とは何か、芸術とはどういう活動かという、そういう問題かもしれないと思っていた。だが、最近の関心の固まりかたを見るに、どうも「芸術と職業」という観点を扱いたいということなのかな、と感じる。もともと、芸術と専門家というテーマは、さまざまな領域で重要なテーマであった。美学においては、芸術の価値を決定するのは誰かということにおいて、社会学においては、社会の中で自律した領域はいかに成立しているのかということにおいて(それは階級や権力という問題と結びついていた)。そうした近代的状況が経て、芸術教育が制度化されると、芸術家(の卵が)圧倒的に供給過多という状況をうみ、一方ではゲートキーパーについて、一方ではキャリアマネジメントについて、が主題に上っていくる。そのような芸術と職業をめぐる社会状況において、アマチュア・セミプロとはどういう存在なのだろうか。そんなことを考えたいのかな、と思い始める。教育学も、社会学も、美学も、文化政策学も、文化経済学も、アートマネジメントも、みんな関連するトピック。こういうものを指して、本質と呼ぶ。

Smilde (2012) Lifelong learning for professional musicians

以下の本の著者。Oxford Handbook of Music Education所収。だいぶ前に見かけていたのにスルーしていたけど、自分がキャリア=生涯の中の学習という位置づけをするようになって、おそらく最重要文献の一つになるんじゃないかという気がする。

Musicians as Lifelong Learners: 32 Biographies

Musicians as Lifelong Learners: 32 Biographies

 
Musicians as Lifelong Learners: Discovery Through Biography

Musicians as Lifelong Learners: Discovery Through Biography

 

 生涯に渡って学ぶということは、21世紀の課題の一つとして考えられている。インフォーマル学習やノンフォーマル学習への注目も、そうした関心から出てきているところある。特に、職業との関連性は重要だ。労働環境が急速に変化している昨今では、職業人となってからでも学び続け、変化に対応することが不可欠となっている。音楽家の場合、かつてのように(日本ではかつてにもなかったが)フルタイムの雇用を期待することはできなくなっており、プロジェクトごとに参加していく形式になっている。これをSmildeは「ポートフォリオ・キャリア」と呼んでいる。こうしたキャリアの重ね方をするためには、セルフ・マネジメントや意思決定能力が求められることは言うまでもない。また、様々な要求に対処してくための能力には、教授スキル、即興、汎用的技能が挙げられている。これらの技能を、音楽家が彼/彼女らのbiographyにおいて、いかに獲得したり、活用したりしているのか。あるいは、音楽家としてのキャリアを通じて、アイデンティティがいかに形成されていくのか、などがトピックとなっている。

リーダーシップ

ここでいうリーダーシップとは、部下をいかに指導するのかというものではない。

芸術的リーダーシップは、共同の作業をいかに成し遂げるか、という課題に関わる。佐藤(2012)のいうところの「即興のエチケット」「合奏のエチケット」(即興のエチケットはもともとBeckerの用語である。かつてconventionと言っていたものに近い)や、Green(2002)のいうflexibility and adaptabilityもこれに関連するだろう。「あまり言葉を交わさずとも、演奏を通して会話を行い、合奏ができる」ということが、核心におかれている。言葉は必要ないという点は、Schonのいう専門家の〈わざ〉や、Polanyiの暗黙知とも通じるようだ。

汎用的リーダーシップは、自己調整に近いが、特に職業的な問題に直面した際に、いかに対処するのか、ということに関わる。音楽家の場合、ライフイベントや演奏不安をいかに乗り越えるのか、などの問題が挙げられる。演奏不安は心理的肉体的なセラピーによって対処することもあるが、むしろ、自分の音楽家人生の中で演奏することを、リフレクションを伴いながらいかに位置づけるかの方が、より根本的な解決につながる。それは、メジローのいう変容学習が起こせるか、と言い換えてもいいだろう。これは非常に面白い議論だと感じる。

教育的リーダーシップはあまり詳しく議論されていないが、キャリアの上で教師やコーチを選択する演奏家も少なくないだけに、今後注目されるだろう。holistic teachingという言葉が挙げられていて、音楽を分節化して教えるというよりも、ファシリテーターやコーチ、ピアとして、自身も活動に参加しながら後輩を指導していく、そんな存在であることが求められている。日本の場合、レッスンプロがある種の「上がり」となっているだけに、教育的リーダーシップへの注目も得られるかもしれない。またTaylor and Hallam (2011)が取り上げているように、欧米でもアマチュア→指導者というキャリアパスが存在する。

・Becker, H (2000) The etiquette of improvisation. Mind, Culture and Activity, 7(3): 171-176.

・Green, L (2002) How Popular Musicians Learn. Ashgate.

佐藤公治(2012)音を創る、音を聴く. 新曜社.

・Taylor, A and S. Hallam (2011) From leisure to work: amateur musicians taking up instrumental or vocal teaching as a second career. Music Education Research, 13(3):  307-325 .

 

インフォーマル学習

インフォーマル学習については、あまり語られていない。生涯を通じた音楽家の学習は、インフォーマルな場面によるものが圧倒的に多いということが指摘されるにとどまる。演奏することで学ぶことは、インフォーマル学習に含まれるのでむべなるかなである。インフォーマル学習に関する詳しい記述は、Grenn(2002)の方が多いのかもしれない。Sloboda(2005)は、若い音楽家が自分の音楽人生で重要な意味をもった場面に挙げているのは、家族や友達とともにあり、リラックスして評価をくだされるような状況であったとしている。音楽家の発達において、幼少期の音楽との楽しい接触が挙げられるのは、Purncutt and McPherson(2002)を引くまでもなく、もはや常識になりつつある。

・Sloboda, J, (2005)  Exploring the musical mind: Cognition, emmotion, ability, function.

・パーンカット, マクファーソン(2002=2011)演奏を支える心と科学.

即興

即興についても、あまり記述はなく。即興は、音楽家の動機付けやアイデンティティと密接に関わる。なぜなら、即興こそが、自己の表現であるからだ。即興とはすなわち作曲であるというのは、しばしば見かける言葉である。即興という言葉は、フリージャズやノイズのような即興音楽を指すというよりも、音楽実践に含まれる即興性(Sawyerのように創造性ということもあるだろう)に注目を置くということである。それゆえ、コピーバンドの中にも即興を見いだすことがあるというのは、Green(2002)にある通りだ。

音楽家人生としての学習

Wengerによる実践共同体の構成要素とは、生涯にわたる学習の次の側面について表しているのだという。すなわち、意味=経験としての学習、実践=成すこととしての学習、共同体=所属としての学習、アイデンティティ=なることとしての学習。以前、自分が研究する学習とはlearningであるより、becomingだと書いたが、ここでも登場した。事実、Wengerもそう書いていたのである。

Because learning transforms who we are and what we can do, it is an experience of identity. It is not just an accumulation of skills and information, but a process of becoming - to become a certain person or, conversely, to avoid becoming a certain person.(Wenger 1998: 215)

音楽家のアイデンティティを構成するインセンティブとなっているのは、インフォーマルな音楽活動、即興、ハイ・クオリティなパフォーマンスとされている。遊びで音楽をできる環境というのは、正統的周辺参加をもたらすことになるし、演奏不安を減じることにもなるという。

Wenger, E (1998) Communities of Practice: Learning, meaning and identity.

職業音楽家の教育における生涯学習

学習者が変化する労働環境に適応できるようにするためには、音楽学校も、時代に合わせたカリキュラムを運用する必要があるし、起業家精神なども養う必要があるだろう。パフォーマンスの評価を、技術的な質だけに求めるのではなく、誰がどんな目的で参加し行われたのかというような、文脈の観点からも行うようにするなど、改革する余地がある。こういう評価の仕方は、昨今のアート・プロジェクトと美大芸大生の関わりにも当てはめることができるのだろう。芸術だけで食っていける時代ではない(そもそもそんな時代は存在しなかったが)が、アート・プロジェクト的な文脈に関わっておけば、自らの芸術的能力を活かしつつ、糊口をしのげる。ならば教育機関も、そうした方面での能力を養うように動くのは、必然とも言える。芸大はあんまりそういうことしないと言ったが、アートプロデュース専攻もできるしね。

生涯を通じた学習者のモデルとしての教師

教師の役割は、生涯にわたって学び続ける態度を学習者にしめし、open learning cultureを情勢していくことになる。従来から、芸術活動における教師というのは、メンターのような存在であったが、教師自身が学び続けること、それを後進に見せることが重要になるだろう。

全体を通して、Smildeはlaboratory 実験室という学習環境のあり方を重用視している。そこでは、お互いの演奏を聞き合いつつも、自分の能力を発揮して新しいものを生み出してく、共同の作業が実現される。大学もそうであるべきだとも述べている。芸術活動において、試行錯誤できる場が存在していることの重要性は、平田オリザが演劇と大学キャンパスの関わりという観点でも指摘していたように思う。仲間と好きなように活動に打ち込める空間というのは、学生のうちはまだしも、それ以降手に入れるのは難しそうだ。 

 

Roulston et al. (2015) Adult perspectives of learning musical instruments

Roulston et al. (2015) Adult perspectives of learning musical instruments. International Journal of Music Education, 33(3): 325-335.

インタビューして「perspective」を問う研究は多い。が、「こんな考えの人もいればこんな考えの人もいました」というfindingsで終わり、結論として「それぞれの考え方に合わせた指導を」となるだけのような印象がある。

この論文は、performance opportunitiesについて記述がある。コミュニティプログラムやスタジオなど様々なな状況で楽器を学んでいる大人の中には、パブリック・パフォーマンスを目標にする人もいれば、家族や友人に見せるだけにしたい人もいる。バンドで活動している人はパブリック・パフォーマンスを目標にし、ソロでピアノを習っている人は家族だけに聞かせたいと思うようだ。これは、けっこう興味深い論点である。バンド活動って、パブリック・パフォーマンスがビルトインされているものだからね。

Performance opportunities. Several of the participants described public performance as a goal of their music learning. For example, Matthew, commented, “… there’s the inner satisfaction of knowing you’ve done a good job and … the applause is nice and the approval is nice and it’s all good.” Yet, unlike Rowan, who self-described as an extrovert who loved to entertain others through performing publicly, most participants described themselves as able and willing to perform with others in a group, and even enjoying the process, although not that interested in doing so. Several were reluctant performers who only wanted to play for selected family and friends; and several were not interested in performing at all. Those who were taking individual lessons on piano seemed to be among the most reluctant performers, while those who were in bands expressed enthusiasm for performing. For example, Elizabeth stated that she would only play the piano for her immediate family and had no interest in performing for others.

 余談だが、International Journal of Music Educationのインパクトファクターは0.286なのに対し、Psychology of Musicのインパクトファクターは2.173であった。音楽心理学の方が、学術誌として優れているというのもあるだろうし、業界的にでかいというのもあるのかな。

International Music Education Research Centre のパブリケーション一覧が興味深い。だいたい今まで見知って来た名前(Green, Hallam, Creech, Welch, Papageorgiらへん)が書いた、モノグラフ、チャプター、アーティクルがある時期までの分まとめられている。http://www.imerc.org/j3/publications/57-publications

 Susan Hallamが自らの研究について語っている動画もあった。かつては"expertise paradigm"に則って研究をしていた。"expertise paradigm"とは、エリクソン的な、「練習すればするほど=時間をかければかけるほど上達する」という、単純でリニアなモデルを採用していた。しかし、同じだけ練習しても同じレベルに達する人もいれば、より上のレベルに達する人もいることを考えると、(単純にかけた時間だけが問題になるのではなく、熟達につながるような)「効率的な練習や効果的な練習があるのではないか」という着想にいたった。そして、調査はそれを裏付けることになったと。彼女のミュージシャンのメタ認知に関する研究が、練習の効率性や方略を問題にしていたのは、そういう理由によるらしい。まあ、エリクソン自身も、deliberate practiceの重要性を言っているし、Hallamもそれを引用していたので、この動画では語られていないが、アンダース・エリクソン自身の研究の進展が前提となった話である。

www.youtube.com

Green(2002)How Popular Musicians Learn

Lave & Wenger が引いてあるくだりで、彼らの徒弟制の研究が

becoming a midwife in Yucatan, Mexico and becoming a tailor in West Africa(p.16)

を対象としていると書かれているのを見てはたと気づいたが、本書でも Lave & Wenger でも、learning の背後にあるキーワードは becoming なんだな。これは実は、あまり明確に意識していないことだった。しかし、学習科学ハンドブックの2章でも引用されていた Becker の論文も、"Becoming a Marihuana User" であったことを考えると、人類学・社会学の領域で自分の研究関心に近いものを探す場合には、learning よりも becoming の方が適しているのかもしれない。社会化の議論も、そちらの方が語感としてマッチしやすい。

追記:2015.8.20

と思っていたら、Karen Burland という人の 博論が "Becoming a musician : a longitudinal study investigating the career transitions of undergraduate music students" というタイトルで、Transition of the non-performer: developing an 'amateur' musician identity? なんてチャプターがあるようだ。やっぱりそういうことなんだな。能力とかメタ認知スキルみたいなものは、一つの指標であって、そうした指標を通して問いたいのは、芸術家としてのキャリアだったり、ライフヒストリーだったり、そういうものなんだ。そうすると、Angela Taylor の "Continuity, change and mature musical identity construction: Using ‘Rivers of Musical Experience’ to trace the musical lives of six mature-age keyboard players" という論文もおそらく重要な先行研究となるだろう。キーワードとしては、キャリア、(音楽)アイデンティティ、パフォーマーシップなどが入ってくるだろう。これらの点については、夏学期ちゃんとレビューできていなかったので、おそらく秋はこうした問題をセントラル・クエスチョンにしたうえで、がーっとレビューすることになるんじゃないかな。

追記:2015.8.21

同様に、ポピュラー・ミュージシャンの社会的実践に関する人類学、音楽人類学、社会学的な研究は、少ないながらも優れたものがある。特に、Bennet (1980)と、Cohen (1991) は特筆すべきだ。p.6

Cohen (1991) とは、一度学環図書館で借りた、Rock Culture in Liverpool のこと。Bennet (1980) は、On Becoming a Rock Musician 

( https://www.questia.com/library/104479078/on-becoming-a-rock-musician :questiaに所蔵されてた)。こう考えると、ポピュラー音楽研究周りは、領域として合っているかもしれないな。Green は、小泉恭子さんとも親交があるようなので、『音楽をまとう若者』も読んどくべきか。

 上に挙げたA.Taylor 論文のアブスト読んだ感じ、自分が当初いだいていた問い「大人になってから芸術活動を始める人は、どんな動機があるのか」というのに答えているぽい。あったか、そういう論文。(アマチュアも含めた)芸術活動のキャリアというテーマは、たぶん自分の関心を一番包括的に言い表してくれると思う。R.A. Stebbins が、娯楽とシリアス・レジャーの違いをキャリアが存在するかどうかに求めたのも、非常に納得がいくものだ。

追記:2015.8.25

(事実関係としての)キャリアやライフステージの存在そのものを記述することは、基礎研究として大事だが、そこで探求が終わるものでもないだろうな。ステージの以降にともなって何がおきるのか(共変関係)や、ステージの以降にはどんな条件があるのか(因果関係)などをはじめ、その先に問いを進めないと先行研究より優れたものは生まれないだろう。おそらく、キャリアそのものを(回顧的に)聞いていくということは、手を付けている人は多そうである。

 

How Popular Musicians Learn: A Way Ahead for Music Education (Ashgate Popular and Folk Music Series)

How Popular Musicians Learn: A Way Ahead for Music Education (Ashgate Popular and Folk Music Series)

 

 

音楽をまとう若者

音楽をまとう若者

 

 

On Becoming a Rock Musician

On Becoming a Rock Musician