足跡

@vbear00のメモ

西垣通(1999)『こころの情報学』

情報学環の世界観って、こういうものだったのかと膝を打つ心地がした。

 

情報の定義について

 情報を工学的に定義すると「2つの場合があって両者の出現確率が等しい(とみなされる)とき、どちらかが出現するかの伝達」(18)である。0か1のデジタルというわけだ。この定義は、ふつう情報という言葉を使う時に含意されている、意味内容や価値といった点を捉えられていない、形式的なものである。それを乗り越えるために、社会学定義(吉田民人による)が有効性をもつ。情報を社会学的に定義すると、それは「パターン」(22)である。とくにその中で、生命現象に関わるもの、記号として使われるもの、伝達・認知されるものという階層がある。

 情報をパターンとして捉えることは、情報が生命とともに誕生したことを前提にしている。生命とは、自分で自分をつくる(=オート・ポイエーシス)パターンにほかならず、その現象を通じて、環境から不断に自己を区別し続ける。この生命現象がない限り、意味あるものとして環境から何らかのパターン=情報が取り出されることはない。ベイトソンのいうところの「差異をつくる差異」が情報であり、差異のつくり方は生命現象に連動する。それゆえ、情報は生物の進化(→ドーキンス)にともなって変化する、歴史的蓄積物であることも言うまでもない。

機械と人工知能について

 機会に人間の言語を扱わせようとする試みが行われてきたが、一つの限界に突き当たることになった。フレーム問題である。機械は、意味内容に関係なく形式的に推論をすすめていく形式論理(アリストテレスの命題論理―フレーゲの述語論理)の扱いには長けている。しかし、状況を判断したり、環境のなかで考慮すべき要素を場合によって取捨選択したり、それに応じて適切な行動をしたりすることは―つまり、意味を扱うことが―機械にはできなかった。総当たり的に場合を探索することはできるが、人間がやるように、文脈や状況に応じて注意を向けるようなことができない。だからこそ、1987年にウィノグラードは『コンピュータと認知を理解する』において、自然言語をしゃべる機械など実現できないと主張したのであった。ガダマーが主張するように、意味はテキストと解釈者(歴史的文化的、あるいは個人史的に構築された先入観をもっている)の相互作用によって生み出される。状況に投げ込まれているわたしたち(→ハイデガー)の先入観を、客観的に捉えることなど可能だろうか。

 そこから、次のような主張も生まれる。心とは、「歴史的に形成される自己循環的な閉鎖系であり、したがって外部の客観的実在性が写像される記号表象の操作系というモデルではとらえられない」(81)。

動物とヒト

 環境からパターンを区別することは、生物が共通して行う営みであった。そのやり方は、遺伝と学習によって形成され、次世代に受け継がれていく。スキナー流の行動主義ならば、動物の意識を認めることはしないが、しかし、(人間を含んだ)動物がシンボルを用いたコミュニケーションを行ったり、状況に応じた行動をしていることを考えるならば、むしろ、動物は一般的に心的システムをもつと考えたほうがよいだろう。特に、ネズミでも「予測」(106)をするということは、それを裏付ける。

 心的システムの効用とは、単に複雑な行動を可能にするというより、もっと別のことである。それは、中枢神経のはたらきで映し出された内部世界のなかで、何らかの〈操作〉をおこない、〈予測〉を立てて臨機応変に行動することです。それによって環境条件のもとで個体が柔軟な生存戦略をたて、他の個体より性的に優位に立つことも可能になるわけです。(111)

類人猿、さらにヒトは、予測という行動をより行う。ダンバーが、群れのサイズと脳の新皮質の大きさの相関関係を示しているが、この関係には「相手の身になってその出方を予測し、予測にもとづいてなるべく有利に行動するという、自省段階の心的システム特有の機能がはたらいていたはず」(129)というメカニズムがある。

 さらに、予測が具体的な状況から切り離されたとき、そこに言葉のはたらきを認めることができる。フィクション―神話とゴシップ―を語ることは、具体的な時間、状況から離れて、ある種「演劇的な時空間での出来事」(141)を語ることである。

類人猿にも(潜在的にせよ)ゴシップや簡単なフィクションの萌芽を語る能力はあったのではないか、そしてヒトの言語は、その能力を基盤にして、フィクションの時空独立性・状況非依存性を大きく高めるために、高度な文法体系と豊かな語彙をそなえるに至ったのではないか(141)

 という仮説が考えられるのである。

 「ホモ・サピエンスの唯一の武器は『予測し計算する頭脳』でしたが、その能力は同時に『未来への不安』という副産物を生むことになりました。明日の計画を立てることは、明日襲いかかってくるかもしれない不安を抱え込むことでもあるのです」(143)。その不安への対処が、神話を語ることであり、共同体の中で正しいことを権威づけることなのである。それによって、わたしたちは「考えすぎる」ことに、ある程度の歯止めをかけるのだ。

 

自分とは違う存在や、いま・こことは違う状況のことを想像し、予測することは、動物一般に見られる行動であると同時に、進化においてヒトが最も発達させてきた行動のひとつであるとも言える。 

ピアジェの発達段階においても、子どもは発達において形式的操作期になって、やっと具体的な事物を離れて、抽象的な思考ができるとされている(ただし、そこでは命題・記号論理的思考が言われているのであって、イメージすることとは異なるが)。少なくとも、いま・ここでの行動に、いま・ここ以外の状況への参照を組み込むこと―グッドウィンによる少女の語りの研究が想起される―は、かなり高次の営みであると考えられる。目標を設定し、それに向かって自己調整しながら練習をすることも、またその一つだろう。これは、熟達したミュージシャンのやり方だと言われている。

サッチマンの『プランと状況的認知』を見ると、機械にないヒトの営みの特徴は逆に、予測や計画=プランが機能しない不確実な状況に陥ったときに、それでも適切な行動を選びとることにあるとも言えそうだが。これはこれで重要な営みであるだろう。計画を立てることと、そのうえで計画を柔軟に変更できることまで含めるか、という話かもしれない。

 

こころの情報学 (ちくま新書)

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