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@vbear00のメモ

吉見俊哉(2011)『大学とは何か』

フンボルト主義に基づき、大学とは「研究と教育」の両方を行う場だと言われる。これまで、それが意味するところは「かつて大学とは研究だけをする機関であったが、近代になって教育的機能を求められるようになった」だと思っていた。だが、実際は逆である。中世に起源を求められる、かつての大学(ユニバーシティ)とは、固定化された知識が伝達される「教育」の場であった。その背景には、教会と神学があり、知識をコピーすることで司祭を育てていくことこそが、重要であった。しかし、そうした大学は変化がにぶく、近世にはいり、18世紀19世紀を迎え社会が変動していく時期にあっては、時代遅れとなっていく。印刷技術やカフェのような場における知識人の議論の方が重要性をまし、またイギリスのロイヤル・アカデミーのように、科学、芸術、土木、軍事などの実学の教育を目的としたアカデミーが設立されていく。国民国家の揺籃期において、大学の変革は急務となり、そこで登場したのがフンボルト主義であった。理性の自由な使用、それ自体を目的とした哲学と、急速に変化する社会において問題解決をはかる医学や法学に代表される実学。それらの弁証法止揚が大学において目指されるようになることで、大学にはゼミナールや実験室といった新しい学習環境が登場した。そこでは、既存の知識では対応できない新しい課題について、教授と学生が共同で議論し、知識を生産する営みがなされるのである。ここにおいて、大学とは、ただ既存の知識を伝達してく教育メディアだけではなく、新しい知識を生産し広めていく研究メディアになった。「かつて大学とは教育だけをする機関になったが、近代になって研究的機能を求められるようになった」のである。「大学院」という仕組みは、前近代的な大学が未だに幅を利かせていたアメリカにおいて、フンボルト主義の理念を実現するために新たにつくられたものなのである。大学から大学院に進学することには、そういった背景をもった意味がある。

大学に関する本書の議論は、ヨーロッパからアメリカ、トルコや日本まで、全世界的な視点からなされている。大学という仕組みのなかにいることで、自分は世界の人たちと何を共有しているのだろうか。目の前に大きな世界が広がり、爽やかな風が吹いているような気分になる。ここら辺はさすがに著者のなせるわざかもしれない。カルチュラルスタディーズに関する話題もちょくちょく登場する。

大学とは何か (岩波新書)

大学とは何か (岩波新書)

 
  • 第1章 都市の自由 大学の自由
  • 第2章 国民国家と大学の再生
  • 第3章 学知を移植する帝国
  • 第4章 戦後日本と大学改革
  • 終章 それでも、大学が必要だ