足跡

@vbear00のメモ

ピケティ(2013=2014)『21世紀の資本』

読書会に向けて。学問的な理解はおいておいて、経済と格差に関する読み物として楽しく読めているから良いのではないか。著者自身もそういう層を意図して書いたと言っているし。経済的な用語の入門にもなっているのがいい。歴史を書くための歴史はつまらないが、歴史的に展開していく議論というのは知的好奇心にひびき面白いものだ。

18世紀から視野に入れたデータによれば、戦時期と復興期の経済がむしろ異常な存在であり、むしろ19世紀と20世紀後半~21世紀の経済状態(=所得に対する資本の割合)は変わっていない。一貫して、資本は存在感があるのだ。日本も、高度経済成長という復興+キャッチアップの時期は、資本の存在感が低下した非常に特殊な時期として見ないといけないのだろう。あれを普遍的な理想像とはできない。

今のところ第4章まで読んで、まだ資本の内訳や、所得に対する比率の歴史的変化を追っている段階である。これがいかにして、格差や不平等に関係してくるのか、労働所得はどうなっているのかといった点はまだ。

 

(追記:2015.2.10)

・日経2月10日朝刊「経常収支 稼ぎ頭交代  昨年、輸出から海外配当収入へ 旅行収支は黒字近づく」

http://www.nikkei.com/paper/article/?b=20150210&ng=DGKKASFS09H6U_Z00C15A2EE8000

貿易収支は10年前の14.4兆円の黒字からほぼ一本調子で悪化してきた。一時的に収支が改善しても、生産年齢人口が減り、生産はせずに消費だけする高齢者が増え続けるとすれば、輸入頼みが定着しかねない。

貿易の代わりに経常黒字を支える主役になっているのが、18兆円強まで増えた海外からの配当・利子収入(第1次所得収支)だ。海外の子会社などからの配当金は4.2兆円で、10年前の4.7倍に膨らんだ。

貿易赤字でもその分、海外に資本をもってそこからの収入を得るという話は、イギリス・フランスの植民地支配に関連して『21世紀の資本』にも出てきた。

だが取引の黒字を出して植民地を併合し、外国資産を蓄積する目的は、まさに貿易赤字を出せる立場に立つことだったのだ。これはしっかり認識しておかねばならない。永遠に貿易黒字を出していても、利益は得られない。モノを所有する利点は、労働なしに消費を続けられること、もしくは、とにかく消費を続けて、自分が生産するように多くを蓄積することなのだ。植民地時代は、これが国際的な規模で当てはまった。p.127

「経常収支」の理解が正しいかは分からないが、現代日本の資本構造も変化しつつあるのだろうか。


経常収支(けいじょうしゅうし)とは - コトバンク

 

・日経2月10日朝刊「住宅の地震リスク軽減を 保険料率きめ細かく 瀬古美喜 武蔵野大学教授」

http://www.nikkei.com/paper/article/?b=20150210&ng=DGKKZO82986230Z00C15A2KE8000

東日本大震災後に高まった家計の防災意識は、特に低所得家計についてその後急速に低下している。震災後に地震保険や耐震改修といった費用を伴う防災・減災行動を計画している家計は、相対的に高所得な家計に偏っている。自然災害の発生が資産格差の拡大につながる可能性がある。

 『21世紀の資本』を読んで良かったことと言えば、歴史的な議論・経済的な議論への日常的な関心が高まったことだ。日経の記事を読む楽しみが増えるというものである。例えば、地震保険等の加入における階層差が、実際に災害が発生した時に、さらに格差を拡大させるかもしれないという話。こういうのにも自然と興味がいく。

 

(追記:2015.2.11)

・日経2月11日朝刊「経済教室 格差を考える(上)
戦後日本、富の集中度低く 森口千晶 一橋大学教授・スタンフォード大学客員教授

http://www.nikkei.com/paper/article/?b=20150211&ng=DGKKZO83037760Q5A210C1KE8000

 ピケティ界隈の研究で、日本の分析をしている森口先生の経済教室が出た。まだ『21世紀の資本』は第6章の途中なので所得占有率の話は出てきていないが、この記事によれば、格差の指標である「上位0.1%の高額所得者による所得占有率」の時系列データから見ると、日本は戦前までは格差が大きかったが、戦後は平等な状態でキャッチアップを果たしたという。しかし、平等なのが単純に良い状態とも言えないようだ。イノベーションを創出するためには、才能や能力のある人に適切な(高額の)報酬が支払われる必要があるが、日本の場合、そうは行っていないという主張もある。どのような格差のあり方を目指すのかも、政策的・社会的に問われている。

 そういえば、経済学の流れで、文化経済学にもちょっと手を出しておこうかなという気にもなっている。スロスビーは読んでおくか…? 須坂で発表して以来、文化政策・文化経済学モチベが高まっている。経済教室で、才能の流出の例としてダルビッシュが挙げられていたのは興味深い。才能に適切な賃金が支払われるのかという問題は、スポーツ、学術、アートの領域を比較させながら考えられる問題だ。修士の研究領域としても、スポーツとアートの対比は、いろいろ洞察を与えてくれるのではないかと思う。


スポーツ経験と芸術経験の社会的意味: 学校外教育活動に関する調査 - ベネッセ教育総合研究所

 

(追記:2015.2.12)

・日経2月12日朝刊「格差を考える(下)
対立避け社会の連帯を 阿部彩 国立社会保障・人口問題研究所社会保障応用分析研究部長 」

http://www.nikkei.com/paper/article/?b=20150212&ng=DGKKZO83038310Q5A210C1KE8000

多くの論者が指摘するように、日本の所得格差の拡大は、富裕層の拡大というよりも、貧困層の拡大によるところが大きい。

 日本の場合、アメリカと比べて、上位0.1%の高額所得者の割合は小さい。しかし、格差が全くないかというとそういうわけでもなく、富裕層ではなく貧困層が拡大しているという方向性が格差が生まれている。また、貧困層の固定化という問題もある。日本の場合、こうした格差を解消するためには、割合の少ない富裕層だけでなく、中間層も含めた形で、社会保障の負担をしていくことが求められる。

 しかし、そうした政策への合意を生み出すことができるか、という点に大きな課題がある。

しかしながら、日本国民の大多数は、自分を中間層ないし貧困層と感じているようだ。社会学者らの研究会による「社会階層と社会移動」全国調査(05年)において、自己評価による社会的階層(10段階)を20~69歳の一般市民に聞いたところ、一番上の階層と答えたのは0.9%にすぎない。

SSM調査によれば、日本国民の大多数は、自分は中間層あるいは貧困層と感じている。こうした人たちは、ピケティの議論を受け入れたとき、自分も格差是正に貢献しなければいけないというよりも、自分以外の金持ちの誰かが責任を負うことを期待する可能性がある。

1980年代後半の同調査では「普通」が50%を超えており、この20年余に日本は過半数が「普通」の生活をしていると感じている社会から、過半数が「苦しい」と感じる社会に変容してしまった。自分自身の生活をこのように感じているからこそ、富裕層に負担を課せというピケティ氏の議論が神からの啓示のように聞こえるのであろう。

しかし、それでは根本的な解決には全くつながらないのである。だからこそ筆者は次のように主張する。

もし、日本が本当に格差の問題に取り組むのであるのならば、その政策のコストを社会全体で担っていかなければならない。そのために必要なのは、「ウォール街を占拠せよ」運動のスローガンであった「99%VS1%」という対立構図ではなく、16%の貧困層と将来世代を社会全体で支えていくという「社会連帯(Solidarity)」である。

ここに至ると、「意識」や「合意」といったことを問題にせざるをえない。きわめて社会的・政策的な問題は、「数字」のデータによって共通の議論の土台を得たうえで、避けては通れない。『21世紀の資本』の内容だけでなく、ピケティの受容をめぐるあれこれにも、日本を占う情勢が見え隠れする。

 

(追記:2015.2.15)

・日経電子版2月15日「良識ある資本主義>21世紀の資本(渋沢健)
コモンズ投信会長」

http://www.nikkei.com/money/column/moneyblog.aspx?g=DGXMZO8302530010022015000000&n_cid=DSTPCS008

ピケティを読む利点は、ピケティにかこつけて自分の不誠実さ=ピケティを理解しようとしていないことを露呈している恥ずかしい人々が誰かわかるようになることだ。例えばこの人は

ピケティ氏は、資本収益率(r)が経済成長率(g)を上回る状態では富は「資本家」に蓄積されると分析した。ここでいう「資本収益率」は利潤、配当金、利息、貸出料など資本から生じる収入であり、「経済成長率」とは給与や生産を含む広義的な所得の成長のようだ。

 もし一般市民が恩恵を受けるのは経済成長であり、資本収益を手に入れられるのは一部の資本家層だけであれば、それは確かに大勢が不満をいう格差問題であり、経済社会の不安定さへとつながる。

 しかし、このような社会構造は、200年前では現実だったかもしれないが、21世紀では一般市民も投資できる。つまり、日本社会において、サラリーマンのような労働者階級もプチ資本家=「de petit capitalist」になれる。(r)の人と(g)の人とは別々の存在ではなく、同人物でもあるのだ。同人物であれば、(r)が(g)と比べて高いということは特に不具合はない。

そもそも r と g は国家レベルでの値であって、個人レベルの話ではない。そのレベルでの動態として、r > g という関係が成り立っていると、すでに保有している富からの所得の重要性が増し、すでに保有している富の大小の関係がそのまま拡大していく。

21世紀の良き資本論を実践するには、我々一人ひとりの(r)を高めることが不可欠だ。

なかなかビックリの提案である。まず、「プチ資本家」になれる労働者階級というのは、社会階層的には「40%」の中間層だろう。この人は、果たして「50%」の人々がプチ投資家になれると思っているのだろうか。そして、なによりも、我々一人の r を高める際に、富裕層の r だけが変化しない(あるいは減少する)保証などまったくないし、むしろリスクをとる余裕のある富裕層の方が r も高くなるのではないか。結局、r > g という不等式が変化しないのならば、すでに「持っている」人々がより富んでいく。この人はたぶん、自分が、投資を生業にできる相当上位の階層にいるということを認識していないのか、あるいはわざと知らないふりをしているんじゃないか、と思う。ピケティを読んで「よし、じゃあ資本所得を得るために投資しよう」という結論を導くのは、良識をうたがう反応じゃないか? 

 もう一つこのコラムに含まれている主張は、ジョン・マッキーと渋沢栄一を引き合いに出しながら、「民間人の良識」に従って、社会全体のパイを増やすということだ。

21世紀初期の「Conscious Capitalism」の提唱と20世紀初期の「Confucian Capitalism(儒教的な資本主義)」が東西でシンクロしていることが大変興味深い。共通点は、政府による富の再分配だけでは価値創造が期待できないという実業家の着眼点だ。あくまでも、民間人の良識による価値創造によって社会全体が富む可能性に期待を寄せている。

世界でいちばん大切にしたい会社 コンシャス・カンパニー (Harvard Business School Press)

世界でいちばん大切にしたい会社 コンシャス・カンパニー (Harvard Business School Press)

 

 「持てる者」(あるいは企業)が「持たざる者」のことを考えて、協力して、道徳的に行動すれば良いというわけだ。そういう篤志家精神と再分配、あるいは民主主義についての議論は、まだ何も言えないので口はつぐもう(現在11章なう)。ただ、少なくとも国家レベルの問題を考える際に、果たして制度設計よりも個々のアクターの良識が優れているという議論は、成り立つのだろうかとは思わざるをえない。もちろん、企業の社会的責任などは、それはそれで大事だけれども。どうもこの人は、ピケティの議論における問題の規模感を共有していないようだ。

実業家の経験から基づく資本主義の実践は、経済学者が提示する机上の資本論と比べてライブ感があって面白い。

データを使って学者が研究してこそ見えてくる国家レベルの規模感を、「机上の」と言ってしまう姿勢こそが、格差を生み出していく「非良識」なんじゃないかと思ってしまう。 実務領域と関連した学問領域、経済・経営・教育などが直面しやすい問題だろうな。ピケティはそれをなんとか非学者層にもわかってもらおうと『21世紀の資本』の構成に気を配っているわけなのだけれども。いかんせん大著過ぎたか。

やはり、私は逆張り派のようだ。世間がトマ・ピケティ氏の「21世紀の資本」を読んでいる最中、自分がページをめくり始めている本は、「Conscious Capitalism」だ。

 この人、ピケティ読んでませんね。。

 

21世紀の資本

21世紀の資本

 
  • 第1章 所得と算出
  • 第2章 経済成長―幻想と現実
  • 第3章 資本の変化
  • 第4章 古いヨーロッパから新世界へ
  • 第5章 長期的に見た資本/所得比率
  • 第6章 21世紀における資本と労働の分配
  • 第7章 格差と集中―予備的な見通し
  • 第8章 二つの世界
  • 第9章 労働所得の格差
  • 第10章 資本所有の格差
  • 第11章 長期的に見た能力と相続
  • 第12章 21世紀における世界的な富の格差
  • 第13章 21世紀の社会国家
  • 第14章 累進所得税再考
  • 第15章 世界的な資本税
  • 第16章 公的債務の問題

 

Le capital au XXIème siècle

Le capital au XXIème siècle