足跡

@vbear00のメモ

2015.4.20 演者/観客。あるいは、参加/質。

 

 両者は時に混同される。ワークショップやインプロのような場で、誰もがパフォーマーになることは、「誰でも舞台に上がれる」と解釈もできるが、同時に「観客でいることは許されない」。ある意味、自分自身を「表現」することを強制されているとも言える。もちろん、そのワークショップに参加者として来た以上、そのような趣旨は理解しているでしょ、という前提なわけだが…。

 「誰でも舞台に上がれる」というのは、あなたが上がりたくなったら、いつでもあなたのための舞台がありますよ、ということだ。だから、むしろワークショップやインプロへの参加がいつでも、望なら自由にできるということならば、それは当てはまる。その点で、これは、ワークショップの内容よりも、ワークショップへのアクセス・ワークショップへの参加の問題である。「観客でいることは許されない」場に、好きなように参加できれば、それは「誰でも舞台に上がれる」ということになろう。

  とはいえ、なぜ観客はいらないのか、という問題は今一度考えていい。ワークショップという場は、観客という存在を基本的に置かない(観客のいるワークショップの事例があったら、ぜひ知りたい)。みな、その場の創作活動に関わることを求められる。少し、不思議なことだ。舞台を成立させるには、パフォーマーと観客の両者の存在が基本要件なのに。もちろん、それをあえて崩すことで、近代的な二分法を無効にしてしまう、という意図もあるのだろう。あるいは、ジャズの即興のように、表現しながら互いに観察する、というプロセスが含まれているから、専ら観察に徹する役割は必要ないのか。

  観客に「見られる」という経験は、非常にストレスフルであると同時に、パフォーマンス中の興奮と、それを振り返った後の濃密な印象は、舞台に上がったことのある者なら誰でも覚えたことがあると思う。演者―観客という関係性が、悪いとはぼくは思わないし、むしろ、その関係性を味わえる人がもっと増えること、は一つの方向性として希求しても良いのではないかと感じる。言い換えれば、presentational なパフォーマンスに、participate しやすい環境をつくるということである。これは、participational なパフォーマンスを行うということは、同義ではない。

  presentational な指針を保持しておくことは、芸術文化活動の質という、コミュナルな活動においては時に軽視されがちになる要素を、保持しておく回路を残すことにもなる。そこに、アマチュアの芸術文化活動に対するアポリア――参加か質か――を解決する糸口があると思う。