足跡

@vbear00のメモ

サイード(1993=1998)『知識人とは何か』

わたしは知識人として、聴衆あるいは支援者の前で自分の関心事を披露するわけだが、ここには、わたしがいかにして自分の論点を明確にするのかという問題のみならず、わたし自身が、自由と公正という理念を促進支援しようとする人間として、何を表象(レプリゼント)するのかという問題ともかかわっている……私的な世界と公的な世界とは、きわめて複雑なかたちで混ざりあっている p.38

「見せる」ということを学問的に語った言葉は、表象 representation だったのだ。

この点に関していえば、知識人であることと、大学教師であったり、たとえばピアニストであることとは、なんら矛盾しない……今日、西洋であれ非西洋であれ、知識人のありようをとくに脅かすのは、アカデミーでもなければ郊外住宅でもなければジャーナリズムや出版社のなりふりかまわぬ商業主義でもなく、むしろ、わたしが専門主義(プロフェッショナリズム)と呼ぶようなものなのだ p.121, 123

どの職業についているのかが、問題なのではない。

門主義とは異なる一連の価値観や意味、それをわたしは〈アマチュア主義〉(アマチュアリズム)の名のもとに一括しようと思う。アマチュアリズムとは、文字どおりの意味をいえば、利益とか利害に、もしくは狭量な専門的観点にしばられることなく、憂慮とか愛着によって動機づけられる活動のことである。現代の知識人は、アマチュアたるべきである。アマチュアというのは、社会の中で思考し憂慮する人間である p.136

 知識人とは、孤独に、ただし聴衆をもって、普遍的価値をつらぬき通し、「亡命者」としてたえざる批判を引き受ける者である。

私見によれば、知識人の思考習慣のなかでもっとも非難すべきは、見ざる聞かざる的な態度に逃げこむことである……このような思考習慣は極めつけの堕落である p.160-161

専門家とアマチュア。

たとえば、わたしが専門家とアマチュアのあいでに想定した差異とは、まさにこれである。つまり専門家は自分の専門という基盤にたったうえで冷静な判断をくだし、客観性をおもんずるのに対して、アマチュアのほうは、褒章とか将来の経歴にかかわってくる業績を求めようとはしないだけに、公共の場で誰かれにはばかることなく思想なり価値観を表明したいと望むのである p.174

サイードは、普遍的な価値、権威に対する弱者、政治、を語っているから、ここからはただの妄想である。もし、芸術の専門家と、芸術のアマチュアを比較したいと思うとき、まさしく、芸術にとっては、アマチュアであることこそが、真正さをもつように思える。熟達者 expert がなすことは、アマチュアリズムの体現ではないか。逆に、ある程度の経歴 creer が得られることは、初心者 novice にとってこそ、必要なのではないか。孤独に思想を、批判を表現する者になるためには、その知的下半身を育てる、ある程度の専門性が求められると思う。創造に先立つ模倣、守破離と呼ばれるものは、そうしたことを示している。

このようないとなみを成功させるには、劇的なもの、反抗的なものに敏感に反応するような感性を養い、ただでさえすくない発言の機会を最大限利用し、聴衆の注意を一身にひきつけ、機知とユーモア、それに論争術で敵対者を凌駕するよう心がけねばならない p.23

商業芸術家と呼ばれる者は、専門家であること、あるいは聴衆に迎合することを選んだ人たちであろう。しかし、そのような人々が実在するかは別である。現実のところ、誰にしも、専門家の顔とアマチュアの顔があるはずだ。もし今『現代演劇のフィールドワーク』読むのなら、専門性とは何か、以前より問題関心をもって考えられるかもしれない。

閑話休題。芸術から軸足を離し、わが身に本書を突きつけよう。いま自分が所属している組織―いや、組織ではなくジャングル―において求められていること、それは専門家ではなくアマチュアになることではないかと。

比較文学というあり方、やはり好きだなと感じる。

 

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

 

 

Representations of the Intellectual (The Reith Lectures, 1993)

Representations of the Intellectual (The Reith Lectures, 1993)