足跡

@vbear00のメモ

舞台でのパフォーマンスと自己変容

 公演や発表会の場で、舞台にあがってパフォーマンスすることが、その人にとってどんな経験をもつのか。という点に関心がある。特に、それがアマチュアによるパフォーマンスならば、なおさらだ。パフォーマンスを職業にしている人にとっての舞台の経験と、アマチュアにとっての舞台の経験は、舞台に向かう心理的な態度、あるいはパフォーマンスを行うための集団の質は、プロとアマチュアでは違うだろう。経験的に、アマチュアが舞台にあがるということは、ある種「ハレ」の、非日常的な経験であることが、予想される。それは舞台を経験する回数の少なさに起因するのだろうか。

 こうした経験は、自己変容を伴っていると、ぼくは考える。すなわち、舞台でパフォーマンスすることは、「いつもとは違う自分になる」ということだ。研究では、この意味での舞台の面白さを探求したい。そして、その舞台の面白さが、社会環境的な要因によって規定されていると主張したい。なぜならば、そうした主張を行うことによって、「環境さえ整えれば、誰でも舞台の面白さを経験できる」という論理が可能になるからだ。これを例えば、心理的要因に帰するのは、救いがない。性格によって舞台の面白さを経験できる人とそうでない人に分かれるというのでは、あまりにも世界はつまらないじゃないか。舞台への招待状を提示したいという思いがある。

 さて、問題は、「自己変容」をいかにして研究の次元に高めていくのかということだ。言葉面さえみれば、自己変容ということは、アイデンティティや自尊心といった、自己概念の変化のように見える。しかし、パフォーマンスの中で「いつもと違う自分になる」という一時的変化を、恒常的な自己概念の変化として捉えることには違和感がある。特に、心理学的なアイデンティティ感では、その統合的な側面が強調される(最近では多元的自己論も出てきてはいる)が、そうしたアイデンティティから遊離した場であるからこそ、舞台でのパフォーマンスは面白い。パフォーマンスにおいてのみ起きる、何かしら独特な経験があるからこそ、それが「非日常」だと感じるわけで、いつもとは違う経験をするからこそ「自己変容」を覚えるわけだ。それならば、その独特な経験とは何かを明らかにする方が適切である。チクセントミハイによるフロー理論とそれに続くソーヤーの即興に関する研究は、一つの例だ。しかし、ソーヤーは創造性に焦点を当てているがゆえに、ぼくの関心とは最終的にずれている。適切な言葉は何なのか。楽しさ? 高揚感?

  それから、本質的な点は、パフォーマンスの中の自己変容ではなく、それが起きたことをパフォーマンス後に振り返る機会にある。なにせ、フロー理論によれば、フロー状態にあるうちは自己意識が消失しているのだから、「自分が変わった」ということも感じない。フローに関する研究の多くが、そもそも、フロー体験を振り返るという方法をとっているのも当たり前のことだ。振り返る契機がない限り、楽しかったことは楽しかったと認識されない。だから、舞台でのパフォーマンスについては、舞台を降りたあとに何が起きるか、というところに目を向けるべきではないかと思う。アマチュアの発表会ならば、そこで観客との交流という契機がある。ここでどんな会話が起きるのかということは、非常に重要な点だと、経験的に考える。アマチュアの活動において、指導者以外から明確なフィードバックを得るのは、ここにしかないからだ。これまで、アマチュアでパフォーマンスを行ってきた人たちは、そこでどんな交流をしてきたのだろう。

 「芸術文化を通じた他者とのコミュニケーション」という主題は、ぼくとってはもう一つ重要な点である。ジャズ喫茶や、ライブ・レストランが気になる存在であるのは、まさにその点によるのだ。ただ、「芸術文化の消費を通じた」コミュニケーションというのは、まだ研究がされている分野である。それこそ、アイデンティティをめぐる研究がなされている。しかし、「芸術文化の実演を通じた」コミュニケーションというのは、未開拓だと感じる。特に、アマチュアに関しては、やっと『発表会文化論』が出たところなのだ。

 ところで、こうした研究を「学習環境デザイン」として行うには、限界がありそうだというのも、間違いがない。しかし、適切な部門が見つからないというのも、また事実である。文化資源学や、音楽環境創造といった学科は存在するものの、ディシプリンとして信頼に足るのかは自信がない。ぼくはディシプリンをもとめて、学習にすがった。それは「研究」として質の高い成果を残したかったからだ。そして、社会学よりは適当だと思った。しかし、パフォーマンス研究やメディア論、コミュニケーション研究といった領域のほうが、学習よりも適当なのだろうか?

 そして何より、ぼくはこの研究を続けていくことができるのだろうか。東屋で日本の近代文学を読んで余生を過ごしたい人間は、素直に職についた方が良いのか?あるいは、芸術文化の現場に、じかに接するようにした方が、社会のためには良いのか?結局、人生の目的とは何だったのだろうか。このまま大学にいたいのか?

 

追記:2015.5.11

洞察を得た。Victor Turner は、パフォーマンスを flow と reflexivity の2側面で表現している。非日常的なパフォーマンスによって、逆に日常やコミュニティの存在が明るみになることは、flow ではなくて reflexivity の話ではないか。