足跡

@vbear00のメモ

3月のはきだめ


2015.3.20

心理学の概念に対する腑に落ちなさがつのる反面、そもそも自分、社会学の論文だってちゃんと読んできたっけ?となった。結局、『文化経済学』みたいなところの論文を拾って読んでいただけで、社会学は論文ベースでちゃんと勉強していないや。学部で、一つもディジプリナイズされることができなかった。卒論が研究にならなかった原因も、フィードバックを全くもらわなかったこともあるが、そもそもディシプリンに全くひたっていなかったからだ。もっと、社会学すればよかった。今からでも遅くないなら、文化産業論くらい、ちゃんとやっておきたい。

2015.3.21

研究として芸術をとりあげる際に、芸術をとりあげたこと自体に意義があるという言い方は不毛で、芸術をとりあげた際にすでにとりあげられたことのある分野と何が同じでどこが違うのかを描けることが、「芸術ならでは」の研究になる。あらためて、レビューすべき対象を芸術に限定してしまうことの危うさを認識しよう。そして、豊かな知見が存在する研究分野をしっかり勉強しよう。それが、動機づけ、に関するいろいろというのは一案だ。音楽の動機づけは、勉強の動機づけと何が同じでどこが違うか。

2015.3.22

専門家になれるなら、何の専門家になりたいだろう? 何について語れるようになりたいだろう? 芸術と文化について歴史的に語れる人はとても格好良く見える。でも自分が熱を入れて打ち込めるジャンルなんてあるのか? それがないからこそ苦労してきた。フラメンコだって、一ファンとして語れることなんてほとんどない。

尺度使ったタイプの心理学の研究にどうも面白味を感じないのは解決される問題なのか。やはり社会学の良さを追求してもいいのでは。

いやちがう、結局、それが学習環境を扱うということなのだ。動機づけとパフォーマンスの相関性を見るだけならば、教育心理学をやればいいだけの話。なぜ、人によって異なる動機づけが発生するのか、そのメカニズムを環境的要因から追求することこそが、取り組むべき問いである。だからこそ、団体活動とはいったいどんな学習環境なのか? 初心に帰って、活動・モノ・共同体から音楽団体を眺めることが求められている。特に共同性の部分は、社会学あるいはサブカルチャー研究の知見が活かされやすい。

2015.3.23

教育工学や教育心理学の体裁をつくろうことを気にしすぎている。それは最後に問題にすることだ。やるべきことは、集団で音楽活動することの意義を問うことだ。そこで何が得られるのかというのは、操作的に学習を定義するという話ではなくで、〈ミュージッキング〉の様相を理解するというまさにその根幹と関わることだ。

博論審査会で、個々の実証の先にある thesis 一つの主張 とは何かを垣間見た。そこには、研究手法がどうこうという技術的な問題とは別に、研究対象がいかなる存在なのか、一つの—かつ独自の—認識論が語られている。音楽活動そのものを深く理解しようとしなければ、thesis に至ることはないだろうと心得る。