川端香男里(1993[1971])ユートピアの幻想
洋の東西を問わず、人間は古くから「どこにもない世界」について想像をめぐらし、その世界を物語ってきた。本書は、西洋を中心に「ユートピア」的な思考の歴史を、文学作品をもとに辿ったものである。ユートピアという言葉自体は、16世紀初頭にイギリスのトマス・モアが著書のタイトルとして造ったものである。しかし、プラトンの『国家』のように、それ以前からユートピア的な思考は存在したし、現代のSFもそれを受け継いでいる。ユートピアと幻想を分かつものは、ユートピアはどこにもない社会を描くことで、逆に現実批判を行っているということである。資本主義が広まっていく時代にあえて田園を描いたり、科学技術が広まっていく時代にあえて科学技術の利用が行き過ぎてしまった社会(反ユートピア=ディストピア)を描いたりする。そうすることで、今の社会ってどうなの?と人々に自省を促すのである。だから、ユートピアは「文学作品の皮をまとった社会運動」という側面も多分にあった。フレドリック・ジェイムソンは『未来の考古学』のなかでこう言っている。ユートピアは「それを現実的に実現するための具体的な戦略や方法がない」弱みがあるが、逆にそれは、「じゃあどうしたらいいのか?」「少しでも実現するためには何ができるか?」といった議論を生み出す強みでもある、と。想像すること、空想することは、それ自体が何か無駄なことなのではない(だから僕は「机上の空論」という言葉が嫌いだ。机上であることと、空論であることは別問題である)。そうではなくて、想像や空想を、人びとや社会がどう受け止めるのか、それに対しどう反応するのか、という点が重要だと思っている。
松尾(2015)人工知能は人間を超えるか
人工知能ブームの感があるけれど、こういう「かゆいところに手の届く」本が少ないなと感じていたので面白く読めた。この本は人工知能研究の歴史を第1次AIブーム、第2次AIブーム、そして現在の第3次AIブームと分けながら、その時代の人工知能の特徴(場合分けと探索の時代から、エキスパートシステムへ、みたな)と、それがいかなる領域で実装されてきたのかが書かれている。昨今よく耳にする「ディープラーニング」が、なぜ画期的なのかも説明されている。理工系の棚に並んでいる「人工知能概論」みたいな本は、基本的に技術的な説明が中心で、「どうやって人類は人工知能を研究開発しようとしてきたのか」という歴史的な説明は、冒頭で軽く触れるだけの印象があった。本書を読めばそういう「人工知能業界」の事情=かゆいところ、も(ほんのさわりだろうけど)知ることができる。人工知能にとっては、専門的な知識よりも、人びとの常識的な知識を扱うことが難しかったこと、膨大な情報に取り囲まれているにも関わらず、日常的にぼくたちは必要な事柄・意味ある事柄だけを難なく抽出し、関連付けて生活しているところが鍵だったというのは興味深い話である。社会学やっている人なら、「エスノメソドロジーってそこに取り組んでいたのか」と気づくポイントである。最終的な議論の争点は、人間の専売特許だった「学習」を人工知能も担えるようになると、社会にどんなインパクトがあるのだろうという話になってくる。現在進行形の出来事であり、答えはまだない。これは、ふだん自分がどのように生活し、働き、学習しているのかを省みないとできないだけに、「人工知能を知ることは、人間を知ることだ。」という帯の文句は、まさしくだ、と思う。
人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの (角川EPUB選書)
- 作者: 松尾豊
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- 発売日: 2015/03/11
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佐々木(1996)知性はどこに生まれるか
ぼくたちが何か行為をするとき、その行為は頭の中にある意図や動機、プランに従ってなされると考えるのが世の趨勢の見方だった。歩くためのプログラムが脳内にあって、それを実行することでぼくたちは歩いている、というようなイメージである。本書が提起するのは、そうした世界観では、行為の複雑性や多様性を説明できないのではないか、という問いだ。人びとが行っている行為を、先入観なしにありのままに観察してみよう。そうすると、ひとえに「歩く」といっても、そこには様々な足の動かし方のパターンがあり、歩き方は一様ではないことに気付く。著者、そしてアフォーダンスの提唱者であるギブソンの考え方からすると、そのような歩きの多様性は、頭の中に歩きプログラムがたくさんあるから実現するのではなく、地面や身体の関係性の中から生まれてくるのである。階段での歩き方は、階段の幅や、どんな靴を履いているかによって変化する。スニーカーとヒールでは、歩く行為も異なるのであり、それは「頭の中」の問題として説明できるものではない。ここでは「歩く」という行為を例に挙げたけど、人間の行為、動物や植物の動きは、すべからく環境との関係の中で、システムとして捉えられるものなのである。この世界観に立つと、知性というものもまた、単に頭の中に存在しているのではなく、環境における行為の中でしか現れえないことが分かる。チェスのエキスパートは、初心者と比べて記憶力に優れるというが、それはあくまで、チェスの戦略上意味のある盤面を記憶する場合に限るという話も、それを示している。彼/彼女の記憶力という知性は、チェスの盤と駒、そしてゲームのルールという環境の中で初めて現れてくるのである。
知性はどこに生まれるか―ダーウィンとアフォーダンス (講談社現代新書JEUNESSE)
- 作者: 佐々木正人
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1996/12
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ちきりん(2015)マーケット感覚を身につけよう
マーケット感覚とは、人びとが何に価値を感じているかを、実際の行動場面から見出す能力のことである。デザイン思考とか流行っていたし、これが大事だというのは耳にタコかもしれない。「JALの競合を考えよ」という課題があったとして、JALの事業を論理的に分解していくこともできるけど、飛行機を使わざるをえない場面を想像することもできる。例えば、すぐにでも海外に飛んで現地社員と会議する必要性を感じているビジネスマンは、Skypeでテレビ会議ができれば飛行機を使う必要性を感じないだろう――彼の価値からすれば、JALの競合はSkypeなのである。こういう発見は、論理的な思考ではなかなか見出しにくい。人間は感情に基づいて動いていることも多いわけで、そうした行動パターンは現場に出てみないとなかなか分からない。逆に、そうやって今はまだ人びとの意識にのぼっていない価値を見つければ、新しい仕事が生まれるかもしれない。このマーケット感覚を養うために、著者はすでに売られている商品に「自分なりの基準でプライシングする」習慣などを提案している。決められた価格ではなく、それは自分にとってどれくらい金銭的価値があるのか、それはなぜかを考えることで、物事の裏にある価値観に気付きやすくなるという。こういう考え方は、研究者がやることと同じで、「なんで彼らはそんな行動をとるのだろう」、「その行動を促す背景には何があるのだろう」と、観察を深めていくことと変わらない。というか、結局何を価値として考えるべきかという問いは、あらゆる仕事、あらゆる人生に関係している。
*単なる本の要約みたいな文章になった。もう少し読んで自分がどう考えたか、自分の経験にひきつけたらどうなのか、という内容も書いてみたい。
マーケット感覚を身につけよう---「これから何が売れるのか?」わかる人になる5つの方法
- 作者: ちきりん
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
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山内・森・安斎(2013)ワークショップデザイン論
そこで、課題設定を「”アンプラグドケータイ”が実現した未来を思い浮かべて具体的な『利用シーン』を考えること」とし、アイデアの拡がりの可能性を残しながらもユーザーの心理や行動を想像せざるを得ない条件を設定した(87)
生意気に文句だけ言うのが得意な自分は、「未来の○○を考えよう」というワークショップの多くを「未来の話ばかりして現実や過去を知ろうとしない人たち」のように言い、自分では活動もしないのに批判ばかりしていた。でも、ゼミでフリーペーパーを作るとなったとき、ぼくが後輩に言ったのは「このフリーペーパーが現実のものとなったとき、それを手に取った人にどんな風に行動してもらいたいか考えながら、作っていこう」という言葉だった。ワークショップデザイン論に書かれていることと同じである。未来について考えるというのは、サービスやプロダクトが人々にどのように活用されているのかを意識するうえで、適切な課題設定なのであった。それは未来ばかりに目を向けるのではなくて、ユーザー中心のデザイン思考を促すための、仕掛けでもあったのである。それを知らずに、表層的な批判ばかりしていた自分が恥ずかしい。